「 神の選びの場所」
聖書では、私たちは神が選ばれた場所で礼拝を持たなければならないと告げています。それはどんなところでしょうか。
1 麗しく楽しい教会と祈り
詩編133編は言います、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(1節)。兄弟姉妹たち一つとなっているのはいかに麗しく喜ばしいことでしょうか。この詩は、神がそこに祝福、とこしえの命があるように命じられたと結んでいます。アロンの衣はキリストの体である教会を表徴しています。尊い塗り油が高い山ヘルモンの露がシオンの山々に流れ下るように衣の裾にまで下ってきます。この霊の油塗りと恵みの供給はどこにでもあるわけではありませんでした。それどころか特定の場所でだけ享受されるべきものでした。シオンの山に行かない限り、彼らは命じられた祝福と命に与り、享受することはできなかったのです。この原則は今日でもあてはまります。信徒たちが一つとなるのは、教えや教理や規則によってなるのではありません。主イエスは祈ることによって取り扱っています。ヨハネ福音書17章11節でこう祈られています、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼ら(弟子たち)を守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。父の御名に守られるとは、父の命によって守られることです。なぜなら父から生まれ、その父の命を持つ者だけが、父の御名に与ることができるからです。このように一つとなるのは、同じ命と光によります。光はみことばから来ます。それは教理、組織、策略を通して維持されるのではありません。光と命を持つことによって維持されるのですが、それも祈りと愛によってなされるのです。もし私たちが暗闇と死の中にいる時はいつでも一つであることを失います。光を失い、みことばを失い、命を失います。イスラエルの子らの誰かがシオンの山の上の神殿に行くのを拒んだとしたなら自動的に彼らは祝福を失い、誇り高ぶり、憎しみ、批判、偽りで満たされるでしょう。人を裁いたり、人のあり方に注文をつけたりします。しかしそれらは主御自身に委ねられた権利です。これが分裂をもたらします。BC586年のバビロン捕囚は分裂の一層進んだ結末です。エルサレムから離れて、バビロンに移されました。教会生活の入る前の私たちは自由気ままで、自分の好みに従って行動していました。しかし教会生活が始まるやこの世的な娯楽や関心まで変わりました。聖潔や霊性について語るように変えられるからです。
2 自分の好む場所
申命記12章でモーセは「あなたがたの神、主が選ばれた場所」へ行くように民に命じました。14章23節で、神の民は、彼らの神、主が選ばれた場所で十分の一を食べるように命じられました。この唯一の場所の問題が繰り返し述べられているのは、それが決定的重要な事柄を啓示しているからです。申命記12章では、イスラエルの子らは異教の諸々の礼拝場所、偶像、その名を徹底的にこわし、取り除かなければなりませんでした。「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」(5節)。神の選びの場所は、神の住まいであったことを示しています。私たちはクリスチャンになってからも山や丘や茂った木の下で偶像礼拝を持っているかもしれません。
モーセはあらゆる偶像の名を消し去れと命じました(12章3節)。神の選ばれた場所に行くのは、神を畏れるからです(14章23節)。神は礼拝場所を選ぶ自由を私たちに許してはいません。その選択は主のことです。私たちのえり好みではありません。「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」(12章8節)。私たちはしばしば自分にとってある事は正しいと正しくないとかを口にしますが、その事は行なうのは自分の目にとって正しい事を行なうのです。私たちは神の目に正しい事を行なわねばなりません。「あなたは、自分の好む場所で焼く尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ主があなたの一部族の中に選ばれた場所で焼く尽くす献げ物をささげ、わたし命じることをすべて行わなければならない」(12章13節)のでした。
その理由は、神の恵みを濫用してはならないからです産物や羊や牛の初子の十分の一は家で食べてはならず、主が選ばれた場所、主の住まいで食べなければならなかったのです。これは好き勝手に恵みを享受する権利はなかったことを意味します。この原則は、教会生活にも当てはまります。もし教会の集会に来ないでしたら、キリストの最上の恵みを享受することはできません。また神の選ばれた場所に行くとのは、兄弟姉妹たちと一つとならざるを得なくなります。ときどき私たちは、ある兄弟姉妹に会いたくないと思うかもしれません。出席しても何とか避けようとするかもしれません。その時、私たちは主の最上の分を受けることができなくなるでしょう。従って祈って、どんな問題も解決されるようにしなければならないのです。イスラエルの民は年に三度エルサレムに上ることが要求されていました。それを拒めば神の民の交わりから締め出されました。ですから、どんな問題も祈って解決しなければならなかったのです。神の選びの場所が、イスラエルの民が一つであることを保ったのです。彼らが神の選びに従う限り、一つであるほかなかったのです。私たちクリスチャンも神に選ばれた民です。従って他の信者と折り合いが悪くとも、簡単に違った礼拝場所に行くことは良い事ではありません。それは命と祝福を失うからです。
適用
では主の選びの場所はどうやって識別すべきなのでしょうか。
第一の原則は、神とキリストの以外の名があるべき所ではないと言うことです。主の御自身の名が置かれてある所です。そこでイエスは私たちがイエス・キリストの名の中に集められることを語っています、「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18章20節)。
第二の原則は、神の住まいであるということです。それは霊の中にあり、そこが神の選ばれた場所であることを意味します。今日、神の住まいは私たちの霊の中にあります。これを顧みなかったり無視して、思いや感情や意志の領域だけで教会を認識しようとするならそれは気をつけねばなりません。ことに愛や施しをもって人間愛をなすところを神の住まいと勘違いしないようにすべきです。
第三の原則は、良き地の産物の十分の一や牛や羊の初子を享受する場所です。ある特定の場所が主の享受を感じないなら、そこが神の選ばれた場所であるかどうか問うべきです。
最後に、神が選ばれた場所が、喜びと満足の場所です。そこには喜ばしいどよめきがあります。それは命の本質が正しく認識され、命の表現がなされているところです。
適用
自然の細部にまで働く神の創造の力を明らかにすべき時である。平和を求めることは、聖書の中に忘れかけたものを再発見することにある。そしてみことばに従うことである。大地との和解を求める前に、私たちは大地の安息を与えることを考えなければならないであろう。