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「 十字架愛」

賀川豊彦(1888~1960)の特性は大きく2つに分けられる。1つ目は、「貧民救済事業」、「組合運動」、「セツルメント事業」などの社会運動である。2つ目は、1925年からの「百万人救霊運動」、1926年からの「神の国運動」、1946年からの「新日本建設キリスト教運動」などの宗教運動である。賀川にとって宗教運動は即社会運動であった。社会運動は、宗教運動の実践で、この賀川の実践と思想から影響を受けた人々が韓国にも存在していたのであった。彼にとって十字架愛は、再創造を意味する贖罪的回復であると共に、第二の創造を意味する新しき発展である。誠に十字架愛においてのみ、悩み苦しむ者を抱きしめ、多くの損害を被りし人々の弁償する大いなる愛となって現われて来るのである。十字架愛こそが、社会問題を解決するものである。

1 キリスト教徒としての生き方

賀川豊彦は、「生命の本質」と「生命の表現」という概念を通して説明した。生命の本質を悟る人は「生命の表現」を伴い、生命の表現を考える人なら、愛の行動によって「生命の本質」を改めて学んでいくものである。愛の行動を知らない人は、神が本質的に愛であることを知る訳がないと。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(一ヨハ4章8節)。「生命の本質」と「生命の表現」のバランスが大事である。つまり、「生命の本質」を悟った人は、「生命の表現」である実践が必要であるが、「生命の表現」ばかり強調して「生命の本質」を見失ってはならないのである。

2 教会のあり方

 また賀川にとって、キリスト教徒としての生き方は、個人の信仰や教会内の関心だけでなく、ひいては世間に目を向けざるを得なくなる。教会は社会への関心と役割を考えなくてはならない。よって「教会は組織化された慈善活動の母」でなければならないのである。賀川豊彦はスラム街に入って行くが、その際、教会が社会の使命を忘れ、世間に目を向けず建築やクリスマスの行事で盛り上がっていたのを激しく批判したが、生涯、彼は教会を離れなかった。

   それが彼の最期の祈りに現われている。「教会を強めてください、日本を救ってください、世界を平和にしてください」。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけで死んだものです」(ヤコ2章17節)という言葉のように、教会は地域にある存在だけでなく、地域のためにある教会として様々な活動を繰り広げることが教会の模範であるべきであろう。 その第一は、「ともに生きる」ことの実践である。賀川はスラム街に入って伝染病の急性および慢性結膜炎であるトラコーマで片方の目が悪くなり、妻のハルにいたっては片方の目の視力を失ってもなお貧民とともに過ごし、痛みを分かち合い、彼らの必要に応えようとした。

    これがいわゆる隣保事業、セツルメント事業である。賀川の考える「ともに生きる」とは、一人ひとりの人格と個性を尊重しながら、互いに理解し、共に助け合い、支え合って生きることであった。その賀川から大きな影響を受け、障がい者と共に歩んできた韓国人李永植(イヨンシク)、李泰栄(イテヨン)や農民のために生きた韓国人劉載奇(ユジュギ)、また教育の現場で教えた韓国人朱善愛(チェソンエ)、金徳俊(キムドクジュン)がいる。李永植(イヨンシク)は、ハンセン病患者と障がい者の教育に尽力し、大邱大学校を設立した。李泰栄(イテヨン)は大邱大学校の初代総長で、李永植の息子である。劉載奇(ユジュギ)は、大邱第一教会牧師で、農村の経済力や団結力の向上をめざし、イエス村を建設し、自立できる共同体をめざした。「韓国のグルントヴィ」と言われた人物である。グルントヴィはデンマークの思想家で、「神を愛し、隣人を愛し、祖国を愛する」と言う三愛主義を提唱した人物である。朱善愛(チェソンエ)は、長老派神学大学校教授で、貧民宣教の援助者として尽力した。金徳俊(キムドクジュン)は、中央神学大学校(現・江南大学校)教授・牧師で社会福祉教育に力を入れ、韓国で初めて独立した「社会事業学科」を設置した人物である。

  第二に、「組織化」である。賀川は「救霊団(1910、後にイエス団)」、「購買組合共益社(1919、後の生活協同組合)」、「農民組合(1922)」などを組織して一人でなくみんなが力を合わせて社会改善をしようと企てた。協同組合こそ、救貧ではなく防貧へともたらす道であると考えた。組織化は連帯への道であると考えた。協同組合の組織化によって社会連帯意識をもつ団体の実現を考えた。キリストによって救われた個人が、その恵みへの応答として「善きわざに励んでいくことをめざした賀川を「愛の実践化」として評価される。しかしながら賀川についての否定的な評価もあった。賀川はキリスト教社会主義者であった。これを拒否する人もいた。賀川が唯物史観をもつ社会主義も人間の意識や価値を重要視していることや「異端」まで受け入れていたことを反論する人もいたからである。また賀川の信仰態度に対する否定であった。1939年7月7日に朝鮮キリスト教連合会の設立に参加し、招かれ、説教した賀川であったが、それは1938年7月7日に組織された「国民精神総動員朝鮮連盟」の記念礼拝であった。しかしその礼拝順序の中の「皇国臣民誓詞」に対して何らの意見を出さなかったことに事に対し、世間と妥協したのではないかという誤解であった。

   また時代背景の理解への限界もある。これは当時の時代の視点に完全には立てないという限界性である。1915年に発行された賀川の『貧民心理の研究』が、差別用語の使用、部落問題への不十分な認識で批判される原因となった。当時の時代背景への更なる理解が深まらない限り十分な評価ができないであろう。今後の課題として残るであろう。

適用

キリスト教における愛とは、神への愛と隣人への愛を指し、相手の個性を尊重し、人格的な尊厳を守ってあげることである。そして光とは、可視的な光でなく、人間の存在または人生の意義を灯すことである。「生命の本質」を悟った人は、「生命の表現」である実践が必要であるが、「生命の表現」ばかり強調して「生命の本質」を見失ってはならない。バランスをもって信仰生活を展開していこう。「一人は万人のため、万人は一人のため」に行き、ともに痛みを分かち合う者でありたい。


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