「 大地の安息を求めて」
経済成長を土台に蔓延しているのが消費文化でこれは継球全体を席巻し、一種の「宗教」化ではないかと思えなくもない。これは経済格差を助長し、未来世代の生存を危うくしている。今年は宗教改革500年で、改革者たちは新規なものを作り出したのではなく、忘れかけていたものを聖書の中から再発見したのであった。同じ問題意識が私たちにも課せられている。
1 持続可能な社会を求めて
消費文化の中で「食」の占める割合は大きい。衣食住は生存にとって必須の課題であるが、神が最初の人間アダムに対して投げかけた言葉も「食」に関してであった。「園のすべての木から取って食べてよいが、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ずしんでしまう」(創2:16-17)と語られた。しかし、それは目を引き、賢くなるように思われた。原子力エネルギーはもたらす果実もまた同様であった。今の日本社会は、原子爆弾の残光と共に思い返している。天地創造の始まりの光は、「見て、良しとされた」光であり命を支える光であったが、広島、長崎、福島で輝いた光は、人や大地の命を滅ぼす光となった。
食べてはならないものを食べると必ず死ぬ、この課題を負っている。 21世紀にふさわしい創造論は、消費と廃棄を考慮するところから始まらなければ持続可能な社会を期待することはできない。放射性物質を使い捨てを前提にエネルギー収支が黒字になる原子力発電を持続しようとするなら創造的ではない。創造されたものがどのように消費され、どのように「終わり」を迎えるかを問うことなしに受け入れることはできないからである。
これは創造と安息をバランスよく同時に考えねばならないからである。 神が第七日目に「すべての創造の仕事を離れ、安息なさった」(創2:3)ように、すべてのものは、生態系に負担をかけないように安息しなければならない。 資源の最終処理、再分配、循環を考えない創造、すなわち、安息を見失った創造は、忌むべきものなのである。ただ安全であるかどうか、経済効率が良いかどうかという視点のみで論じ、大地の安息を考えない創造論を高く評価することはできない。
旧約聖書の中に安息日規定がこうある、「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない」(レビ25:2-4)。
安息日は人間のためだけでなく、大地のためにもあることが記されている。大地が持続可能となるためにも安息が与えられなければならない。日本では「過労死」が問題になっている。安息の重要性を今日ほど考え直さなければならない。
2 環境問題を考える
気候変動などを初めとする環境問題が沸騰している。キリスト教の保守派の中には、地球温暖化を積極的に否定する動きもみられる、環境問題と信仰がどのように結びつくのかについても論じることができるが、持続可能な社会をいかにすべきかは考えねばならぬ重大な課題である。気候温暖化の阻止のために原子力発電は必要であるという推進論も大地の安息を考えると、そう簡単に認めることが出来ないからである。
イエスは山上の説教の一部で「地の塩」について語っている、「あなたがたは地の塩である」(マタ5:13)。 塩は食べ物の味付けには欠かせないものであった。「地の塩」とは、この大地に味つけのできるような存在になれとクリスチャンに命じていることである。塩は微量であっていい。クリスチャンも日本社会では圧倒的にマイノリティである。しかしそのクリスチャンが地の塩となって持続可能な社会のために安息をもたらすかが今、問われているのである。私は寿司が好きでよく食べるが、この「地の塩」を日本の文脈に置き換えれば「寿司に入れるわさび」となるであろう。さびの利いていない寿司はいただけない。
適用
自然の細部にまで働く神の創造の力を明らかにすべき時である。平和を求めることは、聖書の中に忘れかけたものを再発見することにある。そしてみことばに従うことである。大地との和解を求める前に、私たちは大地の安息を与えることを考えなければならないであろう。