「 バビロンの女と小羊の花嫁」
私たちは既に創世記2章の女(エバ)が、エフェソ書5章(教会)とヨハネ黙示録12章(幻の女)に現われる女とが同じであることを見てきました。そして黙示録21章(小羊の花嫁)を含め4人が実際は同じ一人の女であることを発見しました。では幻の女がいかにして小羊の妻になるのでしょうか。
1 バビロンの滅亡
天使がヨハネに小羊の花嫁を見せる(黙21章9節)前に見せたのは大淫婦に対する裁きでした(黙17章1節、19章2節)。この女は、バビロンの象徴で、このバビロンが裁かれるまで小羊の花嫁の出現は待たねばなりませんでした。バビロンの名の起源は「バベル」(混乱の意)です。バベルの塔の物語の記憶があると思いますが、その物語の主題は地上から天に達するための何かを打ち立てようとする企てで、人間の能力・努力で何事かをし、神を凌駕しようとする思いを表徴しています。これはサタンによって注がれた思いです。 バベルの塔の原則の第一は、肉のものと霊のものの混在・混乱です。人の何かを神の何かに見せかけ、人の欲を満たすために、人の栄光を受ける行為で、聖霊の導きを求めないキリスト教をも含まれます。
万事を人間の努力だけでなそうとするものです。ですからこのバベルの塔の原則に生きる人は、「主が憐れんでくださらないなら、私は何一つ行なうことはできません」と言う立場に立つ事はありません。 バビロンの塔の原則の第二は、自分の実情と一致していないのに一致しているかのように振る舞い、人の賞賛を得ようとする虚偽です。このバビロンを象徴する女は「大淫婦」と呼ばれています。
「淫婦」とは、淫らな女のことで、虚飾を装って生きる人です。信心深く見せかけたりして長たらしい祈りをしたり、ささげものをして人の気を引こうとしたりします。また、彼女は、やもめ(夫を失った妻)という立場にありながら、それを否定し、自分は女王の座についているのだからもはや悲しい目には合わないと自分自身に言い聞かせ、男たちに金品を貢がせぜいたくに暮らしていています((黙18章7節)。度を超えて、衣服や食物、住居などを享受する、これがバビロンです。神は、必要を超えたものを持つ事はゆるされません。よってバビロンの性格を持ついかなる事柄にも巻き込まれないように注意しなければなりません。
「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。・・・彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。・・・彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ」(黙18章4節、6-7節)。 バビロンは、バベルの塔から始まり、日ごとに大きくなっていきますが、神が最後にこのサタンの思いに惑わされた彼女を裁かれます。 黙示録19章1-4節はこう言います。
天で大群衆が大声で唱えるのをヨハネは聞きます、「ハレルヤ、救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで、地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、ご自分のしもべたちの流した血の復讐を、彼女になさったからである」。キリストの言葉を不純にした彼女は裁かれます。「大いなる都、バビロンは、このように荒々しく投げ出され、もはや決して見られない」(18章21b節)。この実際の審判は将来のことですが、霊的な裁きは今、私たちによってなされなければなりません。教会の中に神の子たちが多くの霊的でないものを持ち込んだりしていて、神の裁きに対してハレルヤと言えるでしょうか。サタンによって持ち込まれたものを倍返しして捨て去ることが婚宴の席に座る道です(マタイ22章、25章)。
2 神をたたえよ
天の御座から出て来た声がこう宣言します、「神をたたえよ」と(19章5節)。大淫婦が裁かれ、来らんとする小羊の結婚を望み見るからです。エフェソ書では、神の聖徒が神にささげ得るただ一つのものが何であるかを述べています(エフェソ1章11節)。
それは、聖徒たちが神をハレルヤとほめたたえることです(エフェソ1章12節)。人が神にささげ得るただ一つの事は、賛美です。それは聖徒たちが享受するために、受け継ぐべき御国、神の国です。神は「イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩編22編3節)。
この御国が来るためには、賛美が開始されなければなりません。賛美が起ると、サタンが投げ出され、御国が現れます。これが、神を賛美する根拠です。 これを宣言した時、全宇宙に怒涛のように流れる水の音や激しい雷鳴のように響き渡る大群衆の声がハレルヤを叫んでいます。御国が現れ、キリストの支配が始まります。 ヨハネ黙示録19章7節は「小羊の婚礼の日が来て、花嫁(直訳では「妻」)は用意を整えた」と告げます。神の求めていた永遠のエバが得られ小羊の妻の用意ができます。それはしみもしわも、その類のものが一切ない栄光の教会がやって来るのです。この「妻」は、教会の中の勝利者たちのことです。「小羊の妻」が用意されたのは、千年王国(黙20章)の前で、「小羊の花嫁」が用意されたのは千年王国の後です(黙21章)。教会のからだ全体が花嫁になるのは、新天新地まで待たねばなりません。「妻が用意を整えた」と言うのは、衣服のことで、「彼女は、輝く清い麻の衣」のことです(19章8節)。
適用
これは聖徒たちの正しい行いです。白くなるだけでなく、光り輝いています。困難を恐れたり、苦悩を嫌がったり、安易な道を選ぶことを望んだりしていると輝きを失います。麻布は、聖霊の御業を示しています。麻は植物から生産され、血とは関連していませんので十字架の贖いの性質はありません。主を呼び求めることによって作り出される行為です。主は天使を通して言われました、「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言います(19章9節)。この勝利者たちは、何びとも味わったことのない特別な交わりに入れられるのです。教会のために命を供給する者、小羊となりますように祈りましょう。