「 言葉を伴う水の洗い」
多くの人は主の御用のために持っているものすべてを捧げるべきであると考えている人がおります。しかし神は人から出て来るものを受け取ることはしません。天から出たものだけが天に戻ることができ、キリストから出たものだけがキリストに戻るのです。したがって人間の能力、技量、知識、財を捧げているので万事結構であると考えることはできないのです。すべて主の言葉によって洗い清める必要があるのです。
1 理想的な教会
教会のために捧げる何かで価値あり、霊的に役立つものは、旧創造のものではありません。神は霊的なものを生産するのに、肉的なものは決して用いることは致しません。イエスは「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ3章6節)と言われました。したがって霊の教会をつくるのに肉の何かを使うことはできません。到達点・目的は正しいかどうかでなく、過程が問題です。ですからこの過程・方法もまた霊的でなければなりません。これは神が要求していることです。
神の求める教会は、どのようなものでしょうか。それはエフェソ5章25-27節が告げています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」。
2 教会のきよめの方法
「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし・・・」という句に注目します。キリストは、どのようにして教会を完全なものとするのか。それは、言葉を伴う水の洗いできよめることによって行うと言うのです。「水」とは、神の命のことです。この生ける神の命で教会は洗われるならきよめられねばなりません。しかし実際の状態はどうでしょうか。この世の命で満ち、キリストから出たものでないものを持っています。きよめるとは、どういう意味でしょうか。それは加えることでなく、引き去ることを意味します。主は御自身の言葉を通し彼の命をもってきよめるのです。
では言葉とは何でしょうか。ギリシャ語ではレーマが使われています。ギリシャ語の「言葉」を示すには二つあります。ロゴスとレーマです。聖書は神の言葉であると言う時の「言葉」は、ロゴスです。例えば」、ある日子どもが交通事故で死にかかっているとの連絡が入りました。その母親は聖書を開くと偶然ヨハネ11章4節の「この病気は死で終わるものでない」が出てきました。そこで彼女は平安を覚え、感謝しました。しかし事故現場に行くと子どもは既に息を引き取っていました。これはロゴスではありましたが、レーマという神の言葉ではありません。レーマとは特別な場合に語られた言葉です。マタイ4章4節でイエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と言われました。この「言葉」がレーマです。書かれた言葉「ロゴス」だけでは生きるのに役に立ちません。パンも必要ですが、命の言葉であるレーマが必要なのです。ローマ10章17節の「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。ここの「言葉」もレーマです。これはキリストが私たちの内側で語られる時、信じることができるという意味です。
このように神のレーマは、神のロゴスの上に基礎づけられています。ロゴスの聖書の言葉が、ある時レーマになる時、私たちは信仰をもって問題が解決するのです。イエスは「わたしがあなたに話した言葉(レーマ)は霊であり、命である」(ヨハネ6章63節)と言います。主の語られた言葉は、霊であり命でありました。マリヤが「わたいは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1章38節)と言いました。この天使の語った言葉は、イザヤ7章14節の預言の言葉(ロゴス)「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む」通りではなく、「あなたは身ごもって男の子を産む」でした。この天使の語った「言葉」が、レーマで、これを聞いて力を受けイエスを産んだのでした。 このようにクリスチャン生活の土台はレーマにあります。
レーマの声を聞いたペトロが、湖の上を歩もうと企てた時、イエスが「来なさい」と言われたので歩き出しました。するとペトロは舟から降りて水の上を歩き出しました。しかしこの言葉をロゴスのまま受け止めて、別の人が水の上を歩き出せば確実に沈むでしょう。それはその時、主が語っているレーマではないからです。主の言葉は永遠に変わることがないのですが、今、それを主が語っているかどうか、これが重要な点です。つまりレーマとは、主が前に言われた事、それを再び語っておられる、生きている言葉で、聖霊が導く言葉です。今日、教会では主の客観的な言葉が述べられていますが、主の生ける言葉が欠けています。この言葉は霊であり、命です。それが教会に満ちるときよめられてきます。歴史の中の教会は罪で失敗してきましたが、神のみこころによる教会はレーマの命によって洗い清められます
適用
教会をしみやしわやそのたぐいのものは何一つないきよめ、聖なるものとするキリストの働きの目的は何でしょうか。それは栄光を着た教会を迎えることです。これは新しくなり、欠陥が排除されることを意味します。この時サタンを寄せつけない教会が出来上がるのです。その教会、神の領域の拡大の為に私たちは使命を負っています。これが実現する時、神は満足を得、私たちを豊かに祝福してくださるのです。生ける水の流れの洗いを受けましょう