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「 命の水と火の流れ 」

私たちは救われた後、聖霊によって主のかたちへと造り変え、栄光の主の体と同じにしていきます、と聖書は告げています(Ⅱコリ3:18)。では、主イエスは何であるか?

聖書は、イエスは「見えない神の姿」であると言います(コロ1:15)。また「神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)であると言っています。つまり神の命が本質であり、それはイエスの中にあると言う事です。これは私たちが、命、性質、姿、輝きにおいて神と同じになることです。

神は神であり、人は人であって、人と神が同じになることはできない、と考える人もいます。しかしながら天の御座にいます方は碧玉のようであり新エルサレムの城壁も碧玉で築かれています(黙4:31、21:18)。黙示録の始まりで「碧玉の神」が述べられ、終わりで「碧玉の都」が述べています。碧玉の神の栄光は、碧玉の都を通して輝きます。神と都は完全に一体です。この都は小羊の花嫁で、造り変えられた人の群れで、真の教会でもあります。神は中心であり、都はその周辺で、神の表現です。神は中心で、人は周辺のことです。これは人を神と同じにすることで、これは聖書の主題です。

1 命の水と命の火

この主題の為に歩むべき道は命の路線です。神の命が人の中に造り込まれ、働き、造り変えていくのです。したがって神の命が人の中に入る時にのみ、人は神の真の姿を持つことができます。かくして創世記第1章で神の姿が述べられ、第2章で神の命が述べられているのです。神は人を創造した後、人を命の木の前に置かれました。これは神が自分と同じである人を欲し、人が神の命を宿らせることを願ったのです。人は単に土くれにすぎず、神の命を持っていなかったのです。そこで神は命の木から食べることを願いました。それが実行されていれば、命は人の中で生ける水の川となり、人を造り変え、ついに金、真珠、宝石を生み出すのです。ところが神の命はアダムの中に入らず、金、真珠、宝石はアダムの外側にあったというのが創世記第2章の物語です。第3章で悪しき者がやって来て、アダムを善悪の知識の木に触れさせました。こうして、命の木から一つの川が流れ、それが四つに分かれ、金、真珠、宝石を生み出した命の水の川(2:10)は消えてしまい、現われたのは炎の剣でした(3:24)。

アダムの堕落のゆえに、サタンの何かが人の中に入り、命の水の川は炎となったのです。 黙示録では、最初に、神の御座で火(七つのともし火)が燃えているのですが(黙4:5)、最後では水が神の御座から流れ出ています(黙22:1)。ダニエルが見たビジョンも同じですが、神の御座から流れ出る火の流れです(ダニ7:10)。しかしながら、黙示録の終わりで、御座から流れ出ているのは、火でなく水です。新エルサレムでは、命の木から命の水の川が聖なる都の四隅を通って流れています。 アダムの堕落の後、命の木に至る道は回転する炎の剣で守られました(創3:24)。炎と剣の機能は、殺すことです。堕落前に、命の木に触れたなら命の川に触れたでしょうが、堕落後、触れるならば、炎に触れ、燃やされ、殺されるのです。その時以来、この川は、時には炎のように見え、時には水のように見えます。神の御座から流れ出る川は、ある時は命を与え、ある時は燃やし殺します。

主イエスは人に生ける水を与えるために来られました(ヨハネ4章、7章)。主が意味していたのは、永遠の命が、生ける水でした。 しかしながら主は、この世に来たのは火を投ずるためであったと告げ、地上に平和をもたらすためでなく、分裂をあたえるためである、と言われました(ルカ12章)。これは主が燃やす火として人の中に分裂を起こすことを意味しています。この火は人の中にあるものを燃やします。ルカは、主の命は火であると言いました。しかしヨハネは、主の命は水であると言いました。これらは一つの命です。時には火であり、時には水なのです。


2 聖霊

この命は聖霊でもあります。生ける水の川は聖霊です(ヨハネ7章)。ペンテコステ日に、聖霊はすべての人の上に注ぎ出されました(使徒2:17)。降り注ぐ雨のようであることを示しています。しかし弟子たちが見たのは、水ではなく火でした。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ」たのです(使徒2:3-4)。火は、生ける水です。 命の水が注がれると、神の性質、輝きが私たちの中で増し加わり、造り変えられます。

もう一方で、この命の流れは火の機能をもって燃やし、不純物を取り除き、消滅させます。人はサタンにより不純物、罪、肉に満ちています。これらを焼き尽くすのです。罪の快楽を愛している親族との不和、不調和、不一致があるのはこのためです。罪の快楽を楽しまなくなると付き合いができない、楽しくないと言い出します。しかし、聖霊が激しい雨のように注ぎ出されると、心が刺され、罪を告白せざるを得なくなるのです。このように聖霊は人の罪を燃やすために来ます。聖霊を求め、異言を求めるのも同じです。異言を話せるようになると罪の生活を離れざるを得なくなるのです。しかし、いかに異言で語っても罪の生活を続けているなら、それは悪霊から来る異言で聖書的異言とは異なります。

適用 

火としての聖霊は私たちの内側を燃やし、悲しませ不安にさせます。そして自分を嘆き、忌み嫌うようになります。もう一方で主の為に何かをしたいと真剣にならせます。かくして悔い改めの告白をするようになります。 燃やされた後、水としての聖霊はやって来ます。内側は平安になり、満たされ、やすらぎが与えられます。水と火は二つの流れでなく、一つです。

ある日、火が無くなります。サタンのあらゆるものが取り除かれると、解放され、私たちは変貌します。その時、神の御座から水が流れ出るのです。その水は霊であり、私たちの中に流れ込み時、それは神の命、永遠の命となるのです。聖霊の充満を求め、肉の命を離れ、霊の命にしたがって行きましょう。


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