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「 聖霊にある神の豊かさ」

主イエスの復活のすべては聖霊にあり、聖霊は復活の実際であります。主の復活の後、主の命を与える霊である聖霊が人の霊の中に注ぎ出されました。今や聖霊は主の復活の霊なのです。したがって旧約の霊とは異なっています。

旧約の霊は神の神性だけで、死と復活の霊ではなく、人の人性は含まれていませんでした。しかし聖霊には、神の神性のほかに、人の人性と復活の要素が含まれていました。

1 聖霊の豊かさ

やがて新約において霊である神は人の霊の中に入られ、肉体となり、人を着て、人として生まれ、人性を加えられました。そして死と復活の後、昇天において、人性を父なる神の中へともたらしました。その後、キリストは霊として下り、人の上に臨まれました。この私たちの中に入られた聖霊には、神性、人性、死、復活、昇天の要素があるのです。受肉以前の神は、ただ単に天におられる神でしたが、受肉と十字架徒と復活、昇天の後、人の要素に神の要素が加えられ、私たちは神・人となりました。神には人の要素が内側に加えられ、人には神の要素が内側へと加えられました。

したがって聖霊には、五つの要素、すなわち神、人、死、復活、昇天が入っているのです。聖霊のあるところに、復活も昇天もあり、私たちの中に注がれた時、復活と昇天もなかにあるのです。 問題は私たちが復活したか、昇天したかではなく、聖霊が私たちの中に注がれているかどうかです。私たちが今、死に、復活させられ、昇天すべきであるということではなく、それらはすべて聖霊の中にあるのです。聖霊はそれほどにも豊かなのです。

神の豊かさのすべては、聖霊の中にあるのです。神の持っておられるものすべては、聖霊の中にあるのです。聖霊を離れて、私たちの経験の中で十字架はなく、復活もなく、昇天もありません。十字架も、復活も、昇天もすべて聖霊の中にあるのです。ですから聖霊の充満を求める必要があるのです。聖霊を経験することにより神の豊かさを経験するからです。


2 十字架と昇天の経験

聖霊に触れる時、御父と御子キリストに触れ、十字架の死も聖霊の中にあるので、その死を経験します。聖霊に従って歩むことが、十字架の死を経験するのです。十字架に死を経験しないならば、いつまでたっても肉に生き続ける、天然の命を生きるのです。そこには復活もなく、復活の力もなく、昇天の祈り、御座に立つ祈りも出来ないのです。確かに私たちは地上に生活していますが、聖霊で満たされ、聖霊の中で生きるなら、天で生きていると感じるものです。それは、聖霊の中に昇天が伴っているからです。この時、御座の祈り、昇天の祈りができるようになります。超越した祈りであり、イエスの祈り、神の祈りをみことばに沿ってなすことができるようになります。

3 私たちは神の霊を受けた

使徒パウロは、「私たちは、世の霊でなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(Ⅰコリント2章12節)と言います。

信徒は神の霊、それも新約の霊、つまり聖霊を受ける者となったのです。いまや聖霊は私たちの中に住んでおられるのです。これは実感しなくても既にそう決定されたものとみことばに従って受け入れる時、聖霊が動き、働かれるのを実感できます。この時、私たちの心は天の領域にいるという明瞭な感覚で満たされます。例えば、ある兄弟姉妹を好きでなくても、もと交わりをしたいと感じ出すのです。やりたくない奉仕でもやってみたくなるのです。

天の領域にいると、不可能の感覚がなくなり、なんでも喜んで受け入れることができます。自然に感謝と賛美を神に捧げるようになります。 復活の中に生きていないと、私たちの霊は弱くなり、しぼんでしまいます。もし私たちの思い、感情、意志が聖霊の支配下にあるなら、私たちは復活に中にあり、神を内側に持っていることを真に感じるでしょう。

適用 

今、私たちの前には復活への道があります。それは私たちの思い、感情、意志によって何事かをするのでなく、聖霊の導き、主イエス・キリストの御手に導かれて歩む霊の生活、復活の生活です。真のクリスチャン生活はこれ以外にありません。霊的豊富さの生活があるならば、卓越した復活の力が押し寄せて来て、いかなる重荷にも耐えることができるようにしてくださいます。勝ち得て余りある生涯を得たいではありませんか。どうか復活の生活を生きていただきたいものです


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