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「 既に世に勝っている 」

十字架の主イエスがお架かりになる直前、弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と奇妙な言葉を発せられました。はせられました。これはどういうことだろうか、と弟子たちは互いに論じ合っていると、イエスは「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。

しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と語られました(20~22節)。これは何を意味しているのでしょうか、この事について学んでみます。

1 神の子の誕生

ここで主は女が子どもを産むことの譬をもって説明しています。これは使徒言行録13章33節「あなたは私の子、わたしは今日あなたを産んだ」と復活に言及したところで語られた「産んだ」ということです。受肉したキリストは、復活の中で生まれ、神の子となられました。こうして神の長子となられ、すべての信徒は神の多くの子どもとなってキリストの兄弟たちとして教会を構成し、表現と成られました。この譬で、弟子たちは産みの苦しみをしている女のようであり、主は復活の中で生み出される子どもであることを、主は示されたのです。

「子ども」とはキリストのことです。「誕生」とは、復活です。主は飼葉桶の中で「人の子」として生まれましたが、復活の中で「神の子」として生まれました。どの日にキリストは神の子として生まれたのでしょうか? 復活の日にです。彼の復活は誕生でした。ローマ1章4節は言います、「聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。キリストは受肉して人となられた神の子でした。

厳密に言って、彼の人の部分は神の子ではありませんでしたが、彼の人性の内側には神の子がおられました。死と復活の前に、人性において神の子でしたが、彼の人の部分は神の子ではありませんでした。ですから、彼の人の部分を子たる身分の中にもたらすために、彼は死と復活を経過しなければなりませんでした。彼の神聖な部分は神の子であって、神の子として生まれる必要はありませんでしたが、彼の人の部分は神の子として生まれ、定められる必要がありました。

このように、イエスは生前中、神の子でしたが、人々は「この人はだれだろう? 彼は神の子なのだろうか?」と尋ねました。イエスは神の子であったのに、どうして人々はなおも彼について疑問を持ったのでしょうか。それは彼の人の部分のゆえです。彼の人性は神の子は見えなかったからです。死と復活の手順を経て、神の子と定められる必要があったのです。この意味で、イエスは復活の中で生まれた子どもでした。復活の中で生まれた後、イエスは復活の日の夕方、弟子たちに会いに来られました。そして弟子たちは、イエスの臨在に歓喜しました。母が自分の新生の子どもを見て幸いであるように、弟子たちも復活の日に主を見て喜びました。この世は復活された主を見ることができません。ただ弟子たちだけが復活の主を見ることができるのです。


2 御名の中で祈ること

23節で「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と告げられました。信徒たちが御子と一つであり、御子の名の中で祈るのを見ます。復活を通して、彼は神の子として生まれ、命を与える霊と成られました(Ⅰコリント15章45節)。今や私たち信徒は、霊の中で、霊によって、霊をもって御子と一つと成ることができます。「御名の中で祈る」とは、主イエスと一体であることを意味します。私たちは自分で祈るのでなく、主によって祈るのです。主のみことばと一つとなって矛盾せずに祈る時、祈りは必ず答えられます。私たちが祈る時、イエスもまた私たちの祈りの中で祈られるからです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20章22~23節)。

これは、私たちが聖霊を受け、主と一つであり、主が私たちと一つであるからには、私たちが誰の罪を赦しても、主は赦され、私たちがだれの罪を赦さないでおくならば、主もまた赦さないことを意味します。なぜなら霊においてイエスと一つであるからです。 主は復活を通して、弟子たちと彼と一つにされました。その時から、弟子たちは主の名で祈ることができます。弟子たちは主と同一視されているので、イエスは弟子たちの為に祈るのでなく、弟子たちの祈りの中で彼らと共に祈られます。弟子たちは、もはや御子を通して間接的に御父に祈るのではありません。御子の中で直接、御父に祈るのです。なぜなら御子と御父は一体だからです(26節)。

適用 

苦難の間、弟子たちは散らされ、イエスは独り残りましたが、御父は共におられました。弟子たちは離れても、御父は離れませんでした(31節)。私たちは主の中で平安を持っています。主は死んで復活されましたが、私たちは平安のないこの世に残されています。悩みがあります。しかし、主御自身は私たちの平安であり、私たちは彼の中で平安をもつことができます(33節)。この世がどれほど私たちを悩まし、迫害しても、主はこの世に打ち勝たれました。よって私たちは心配したり、この世を恐れたり、する必要はありません。この世に私たちは迫害させ、悩まされたとしても、主は私たちの平安です。この世に打ち勝たれているのですから、私たちもイエスの中の中で平安なのです。一心同体の信仰を持ちましょう。


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