「 主の復活を知るため 」
理想と現実では開きがあります。多くの信徒は救われた後、毎日聖書を読もうと決心し計画を立てますが、それは理想であって、その計画を実現する信者はそう多くありません。また成就したとしても、あまり益があるとは思えません。祈りや他の霊的活動でも同じです。砕かれなければ何の光も受けません。信仰の歴史は砕かれる事柄と言えます。そのために神は試みを備えました。
1 砕き
個々の信徒や教会は、混合物で満ちています。これは私たちの思い、感情、好みのようなものを含み、これが、信徒間の不一致や論争という形をとって現われてきます。それゆえに神は私たちに恵みを与え、きよめ、砕きます。デモニッシュな要素が混在するので神に対して敬虔である事すらできなくなり高ぶるようになります。混合しているものを暴露し、神の喜びにならないものを取り除かねばなりません。アブラハムはエジプトに下った時、嘘をつきました(創12章)。その後、ネゲブ地方で祭壇を築き、主のみ名を呼び求めましたが(13章)、ゲラルに滞在した時もまた嘘をつきました(創20章)。嘘をつく要素は取り除かれていませんでした。同じような状況に置かれると、繰り返してしまいます。そのために繰り返し砕かれ、試みを受ける必要があります。損失を被り、苦悩の過程をたどるのです。
パウロも例外ではありません。彼の働きが拡大していた頃は、主の復活を知ることが必要とは感じていませんでした。ところが試みに遭い、牢獄に捕らわれ、拘束されて初めて、主の復活の必要を強く感じたのです。『フィリピの信徒への手紙』はエフェソの獄中(55年の秋頃)で書いた手紙ですが、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(3:10)と書きました。彼は復活の啓示を必要としたのです。この時点で、パウロは死の環境である墓の如き牢獄の中に入れられていました。これに耐えられず彼はイエスとその復活の力を知り、イエスの死と苦しみに等しくされる必要を感じたのです。これが存在の深みでキリストを認識する方法なのです。
2 雅歌における啓示
『雅歌』中で主を追い求める者を現す娘は、愛においても知識においても強く、熱情的でした。彼女の愛する人への感覚は「山々を跳び越え、丘の上を跳びはねるかもしかや若い雄鹿のようでした」(2;8)。それは啓示やビジョンでなく彼女の感覚的な印象です。ところがやがて彼女はビジョンを与えられます。それは主が復活の力で満ちているので、山や丘を跳びはねていると言うことです。この時点で彼女は、感覚から啓示へと進展しました。 教会生活においても多くの信者は主イエスに関して十分な光と啓示を持っておらず、感覚的に理解しているだけです。 いまや、私たちは主イエス・キリストについて感覚的に理解するだけでなくビジョンと啓示を持つべきなのです。主は十字架で私たちの罪を担い、神によって見捨てられ、復活の中へと入って「暁の雌鹿」となられました(詩編22編の表題)。『雅歌』の中で恋する人は娘に言います、「さあ、立って出ておいで。ごらん冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(2:10-12)。これが示しているのは、復活のビジョンを見ることです。恋する人からの語りかけは、啓示です。こうした復活の中で主と共に前進するのです。これが、私たちに対する主の召しです。
3 死の経験
主の復活を知るために死を経験する必要があります。パウロは獄に降り、多くの苦難を経験しました。束縛と自由の制限を受け、以前のように「翼」をもってどこにでも自由に飛んでいくことができなくなりました。私たちも広い意味で、落ち込んだり、沈んだりしたとき獄の中にいるのです。この経験は必要です。それによって主の死と主の復活の力を経験するからです。獄の中の苦難は、単なる外側の迫害や困難ではなく、自己から救い出され、主の死に等しくなるために、私たちの中の天然の要素を死に渡す殺しです。主の死は鋳型であり、そこに私たちに属するすべてのものを死に渡すなら、主の属するすべてのものを復活させるのです。
獄では壁の中に閉じ込められるのですが、それらの山や丘に妨害されることなく、山々を跳び越え、丘の上を跳びはねるのです。主は、「さあ、立って出ておいで」と召すのです。すでに冬も過ぎ去り、雨も上がったからです。これは死が過ぎ去ったことを意味します。私たちの感覚では依然として死の中にありますが、主は言われます、「死のものはすべて終わり、過ぎ去ってしまったのだから、あなたは起き上がり、わたしと共に出て来なければならない」。これが復活です。いつまでも古い囲いのなかにいるべきではないのです。「囲い」は養育係の律法のようなものです。それも神が造られたもので、ユダヤ教、イスラム教、仏教、神道などがそれです。しかしもはやその一時避難所の中で寒い冬を過ごし、獣から守られている必要は無くなったのです。立ち上がって出て行くのです。パウロは復活が分かったので、繰り返し「喜ぶ」と言いっています(フィリピ第2章)。彼は投獄の苦難に復活の力を適用する方法を知っていたのです。また投獄の苦難は、彼の天然の要素を死に渡し、他方で神のすべての要素をパウロの内側から生かし出したのです。
適用
獄の中にいながらパウロは束縛されておらず山々を跳び越え、丘の上を跳びはねていました。それゆえに「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(2:18)と言う事ができたのです。「主の死の姿にあやかる」とは、人の要素を死に渡し、神の要素を生み出すことができるということです。この原則は個人にも教会にも適用できます。このゆえに彼は「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い・・・生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:20-21)と言う事ができたのです。復活のビジョン、啓示を持つことによって苦難を耐えることができたのです。主の復活をするとき、復活の力と実際の解決の道を経験するのです。落胆し、悲しむとき、それが造り変えられるチャンスなのです。いかなるつらい経験でも平安を持ち、喜びを持つように苦しみを味わい尽くしましょう。主の死に同形化されるまで