「 道であり、真理であり、命 」
ヨハネ福音書14章はこの福音書の心臓部であり、中心です。そこでイエスは「行って・・・戻って来る」と言われました。行くのは戻ってくるための旅でした。つまり行くのは来るためであり、行くことによって来たことを意味します。これは、イエスの死と復活は、来るための一歩進んだ段階で、イエスの霊が私たちの中へと入って来られることでした。主が肉体にあった時は弟子たちの間におられましたが、彼らの中には入ることができませんでした。主は復活の後、御自身を聖霊として、弟子たちの中に息を吹き込まれました(ヨハネ20章)。こうして行くことによって来られたのでした。この目的について考えましょう。
1 神の中に生きる道
この目的は、「わたしがいる所に、あなたがたもいることになる」ことです(3節)。主イエスは今どこにおられるでしょうか。主は天におられるのでしょうか。違います。主は御父の中におられるのです。そして私たちもまた御父の中におることができるのです。主のおられる所に私たちもおるからです。これは主の死と復活を通して可能となりました。すべての主の弟子たちは御父の中に入っているのです。
この神の中に入る道は、主御自身にあります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(6節)と主イエスは言われました。これは私たちが主イエスを神の命として持つことによって、真理を持ち、御父へと至る道を持つのです。そして主イエスを通してでなければ「天」に行くことはできないと言われたのでなく、「父」のもとに行くことはできない、と言われたのです。主の意図は、私たちを天にもたらすことではなく、神の中へ、御父の中へもたらすことです。私たちの目標は、天に行くことではなく、御父の下にいくことなのです。そこは場所ではなく、道である御子であり、目的地である御父です。それは生けるパースン
2 三一の神の具体化
ヨハネ福音書14章は、御自身を信徒たちに分与する三位一体の神を明らかにしています。神は、唯一の神ですが、しかも三です。御子は御父の具体化、表現です。「わたしを知っているなら、わたしの父を知る。いや既に父を見ている」(7節)のであって、イエスを見ることによって父なる神を見ているのです。また御子は神の霊として啓示され、実際化されます。聖霊なる神は人の内側に入って、神の命を供給し、人は神を享受します。 御父は、御子の中におられます。これらは二でなく一なのです。イザヤ書9章6節では、御子が御父と呼ばれています。「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。・・・その名は力ある神、永遠の父・・・と唱えられる」。どのようにして御子が御父とあるのかは分かりませんが、聖書はそう言っています。御子が御父、力ある神と呼ばれると告げられています。「主よ、私たちに御父を示してください」(8節)と言ったフィリポのようであってはならないのです。しかしその当時、彼でさえはっきりしなかったのです。 また御子は信徒たちの間におりましたが、彼らの中に入ってはおりませんでした。入るためには肉体から霊へと変貌し、変化しなければなりませんでした。そこで主は私たちの中に入り、住まいとするために変貌されたのです。霊の形で来られたのです。それが「別の弁護者」「真理の霊」です(15~16節)。これが聖霊で、私たちの内側の来られる実際の霊で、息としての「命の霊」です(ローマ8章2節、Ⅰコリ15章45節)。この霊が今や私たちと共におり、私たちの中に住むのです(17節)。それは復活の日に分かると言うのです(20節)。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)と言われたのでした。こうして三一の神は私たちの中に分与されるのです。
適用
この章は、主が天に行って天の邸宅を建て、戻って来て私たちをその邸宅に連れて行くことを語っているのではありません。それは人の考えに従った理解です。神は天の邸宅と地上の教会を持たれるのではありません。ただ一つの生ける住まいを持たれるのです。それが教会です。究極的には新しいエルサレムとして完成しますが、その実際は御自身を私たち聖徒の中に分与し、人の霊から、魂へ、肉体へと全存在に浸透して、占有し、拡大し、私たちが永遠の住まいとして、新しいエルサレムを持つのです。それだけではありません。こうして主イエスは信徒の内側で生き、語られるのです。この主を「内住のキリスト」と呼ぶのです。