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「 戻るために行く旅 」

イエスはヨハネ福音書14章で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われました。この意味するところは何であったのでしょう。どこに行き、戻って来るのでしょうか。

1 行く目的

常の考えでは、行くということは、離れる事を意味しますが、ここでイエスが「行く」といったことは、死んで復活することを意味するのです。ではどこに行くのでしょうか。確かにイエスは「父の家」に行くと言っています。しかし「天」に行くと言ってはいません。したがってそう単純ではありません。現に、イエスは、それをあなたがたは知っている、と言うのですが、トマスは分かりません、と答えています。確かにイエスは「父の家」に行くと言っています。しかし「天」に行くと言ってはいません。「父のもとに行く」のでしょうが、イエスは既に御父の中におられ、御父はイエスの中におられました。

ところが多くの人は、御父は天におられる、よってイエスは天に行こうとされたと考えています。イエスは弟子たちを一つの場所から別の場所に連れて行く意図はありませんでした。それは場所の事柄ではありません。それは生けるパーソン、御父自身の事柄です。イエスは御父に行こうとしておられ、弟子たちを御父のパーソンの中にもたらすことでした。イエスは受肉によって御父から来て、神を人の中にもたらしました。今やイエスは人を神の中にもたらすために、御父に行こうとしておられました。よってこの章に思想は、イエスが天に行こうとされているのでなく、御父に行って、信徒すべてを神の中にもたらそうとしておられたことです。イエスの行かれる道は、死と復活により、その行かれる目的は人を神の中へともたらすことでした。


2  戻って来る目的

2節の「わたしの父の家」とは、神の住まいとしてのキリストのからだ、宮です。初めのうち、キリストのからだは、彼個人の体だけでした。しかし、死と復活を通して、キリストのからだは増し加わって、彼の団体のからだとなりました。それは教会であって、復活を通して再生されたすべての信者を含んでいます(Ⅰペトロ1章3節)。キリストの復活の中で、教会はキリストのからだ、すなわち神の家、神の住まい、神の宮となったのです。したがって「住む所がたくさんある」とは、キリストのからだの多くの肢体であり(ローマ12章5節)、キリストのからだは神の宮なのです。

かくして、「主が行く」(死と復活を通して)のは、彼が弟子たちの内に来られることでした。主は肉体の中で来て、弟子たちの間におられましたが、肉体にあった時には、彼らの中に入る事ができませんでした。彼は更に進んで死と復活の段階を経過して、肉体から霊へと変貌しなければなりませんでした。それは弟子たちの中に入り込んで、その中に住むためでした。復活の後、確かに彼は来て、御自身を聖霊として、弟子たちの中に吹き込まれたのです(ヨハネ20章19~22節)。

3  天とは何か

多くのクリスチャンは天に行くことを願っており、主が私たちのために天に住まいを用意していると考えています。しかし聖書は、聖書を以って解釈しなければなりません。その天とは、黙示録21章では新しいエルサレムとなる都ですが、それは天にとどまろうとしていません。

天から下って来ようとしています(黙21章2節)。神は天から下って来ることを望まれておるのです。幕屋と宮も神の民が神の住まいであることの表徴でした。教会も幕屋と宮の継続です。私たちは神の宮です。最終的に新エルサレムに置いて完成します。そして黙示録21章、22章を注意深く読むなら、新エルサレムが物質の都ではなく、生きている人たちによって構成された、生きている都です。

そこにはイスラエルの12部族の名と小羊の12使徒の名があります。神は地上で住まいを持たれ、それが教会です。生きている信者たちの構成体です。それが、私たちの為に用意しに行こうとされた場所なのです。イエスは、「わたしの教会を建てる」(マタイ16章18節)と言われ「場所を用意しに行く」(2節)と言われました。この二つは決して別々の事ではありません。天に場所を用意し、同時に地上に教会を建てられるのではありません。これは論理的ではありません

適用 

主は教会を建てるために、場所を用意しに行かれました。これが究極的に新エルサレムで主は今教会を建てられています。これは新エルサレムの建造と同じなのです。神は唯一の建造を持たれます。それは主の復活の命を持つ贖われた民による、主の生ける住まいなのです


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