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「 洗足の霊的意義 」

      イエスが弟子たちの足を洗われたのは、愛の事柄に違いありません。イエスは弟子たちをこよなく愛していたからです。しかしそれだけではありません。霊的な意味がありました。

 

 

1 洗足の理由

      なぜ足を洗われたか。それは、イエスが「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを」知っておられたからです(3節)。この三つの事柄のゆえに弟子たちの足を洗われました。「すべて」とは主の弟子たちであり、御自分が神のもとから来たことは、神を弟子たちの中へともたらし、彼が神のもとに帰ることにおいて弟子たちを離れるはずでした。

     今やイエスは弟子たちを離れようとしておりました。そこで離れた後の、弟子たちと神との間の関係は、どのように維持されるのかが問題でした。それは足を洗うことによって維持されると言うのです。足を洗うと言うことは、神と人の間の関係を妨げるすべての汚れを足から洗い落とすことです。こうしてイエスは神との関係維持の方法を示したのです。

 

2  霊的な洗足

 

     イエスは、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始めらました。 ユダヤ人は宴席に来た時、足を延ばして座りました。もしよごれと臭いがあれば不快であり、交わりは妨げられました。よって、喜ばしく、楽しい宴席にする為には足を洗わねばなりませんでした。悪臭は、交わりを破壊します。それだけではありません。霊的な感覚でこれを受け止められます。この汚れは主との交わりをも妨げます。つまり主が足を洗って下さるとは、日々、主があらゆる汚れから清く守ってくれることを意味します。これは、私たちもまた人を清めるようにしなければならないことを意味します。霊的な足洗いを必要としています。

      この汚れは、罪深い事を意味するのではなく、よごれです。ちりは至る所にあります。空気もよごれています。何もしないで座っているだけでよごれます。この地上はちりで満ちています。何をしてもよごれます。

    罪深い事のためには、血の清めを必要とします。よごれのためには、霊的な洗いが必要です。聖霊、みことば、内なる命による洗いが必要です。よごれは罪深いこととは違いますが非常に近いので区別が難しいのです。

 

3  よごれは不快をもたらす

 

よごれは不快、不愉快のような感覚を人に与えます。したがってこんな感覚も同じです。つまり、過剰な愛も不快をもたらすことがあります。夫を過度に愛する妻は、夫を気づかい風邪をひかないようにコートを着せたがります。しかし夫は真に必要としていなければ煩わしいだけで、不愉快になります。それは罪ではありません。ただうるさく思い不快になるだけです。これはどういう結果をもたらすでしょうか? それは喜ばしい交わりを妨げるのです。これはよごれに対して抱く感覚と似て不快をもたらすからです。

    その時、主の十字架に血を適用させて祈っても役に立ちません。それは血による洗いではなく、聖霊、みことば、内なる命による洗いが必要となります。それは主イエスが与えてくださいます。内側を開いて洗い清めることです。み言葉と聖霊と命が満ち、洗い清められます。生ける水による洗いです。
    いまや私たちは、相互の足洗いを必要としています(14節)。共に奉仕している兄弟姉妹は、容易に無意識のうちに互いに傷つけ合います。私たちは傷つけられた意識で一杯になります。その結果、私たちはよごれ、互いに喜ばしい交わりを維持することが難しくなります。そして、霊がダウンしてしまいます。互いに批判し合ったり、争ったりしている訳でなくても、霊がよごれてしまったのでダウンするのです。そこで楽しく語ることができなくなります。喜びの霊が消えてしまうからです。そして一緒に祈ることも出来なくなります。それはみんながよごれてしまったからです。
 

 

 

 

適用 

      デパートに行っても、レストランに行ってもよごれます。たえず主に洗っていただかなければなりません。また私たちもまた互いに洗い合う必要があります。

     みことばを分かち合い、祈り合い、主の霊の導きを証し合い、霊と命のあゆみが強化されるように洗い合うのです。この霊的な実行がなければ私たちはキリストにある一つを実現することができません。そのためには上着を脱ぐことです。それは実際のへりくだり、真にへりくだることです。「上着」は、私たちの振る舞いを表徴します。どのように振る舞うかはすべて、私たちの上着になります。よい振る舞いをしてきたなら、よい上着を持っています。

  しかし、人に霊的な足洗いをするには、自分の達したもの、行なってきたことを脱ぎ捨てなければなりません。自分の美徳も忘れる必要があります。自由も縛られなければなりません。そうでないと人の足を拭うことはできません。また足を洗うには多くの水が必要です。水は生ける聖霊、みことば、内なる命です。それらが私たちの内側より流れさせなければなりません。そうでなければ人の足を洗えません。このような霊的な足洗いが、保たれる時、教会生活を実現できます。

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