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「 一粒の麦の増殖 」

     ヨハネ第11章にはラザロの死人からの復活の記事が見られますが、その結果、このベタニヤに家は教会生活の縮図となった。私たちはみなラザロであって死人であった。そこに主は入って来て、私たちを復活させた。そして私たちが教会と成ったのである。復活させられた人が、主の安息と満足を見い出す場所が教会、いまや私たちはその教会を祝宴の家として考察する必要がある。

 

 

1 祝福の家

 

      この祝宴の家は、宗教の外にあった。エルサレムにも、神殿にもなく、エルサレムの外、宗教の外のベタニヤの小さな家にあった。宗教家たちは、命としてのイエスを拒絶し、ラザロも抹殺しようとした。イエスはベタニヤの家で、満足と安息を得たのである。以前イエスには「枕する所」もなかった(マタイ8・20)。しかし今や、安息の場所を得た。この家に今も主は霊的な意味で住んでいる。外側は何も引き付けるべきものはなかったが、内側は祝宴をし、安息をなし、満足で満ちていた。教会はこのようであるべきである。

   ベタニヤは、主が死人を復活させる場所。主の復活の命から信徒が生まれた場所である。私たちは罪の中に死んでいた(コロサイ2・13)が、主は私たちを生き返らせ、再生された。この結果、私たちが教会と成った。教会は復活の命の産物であり、天然の命の中に教会はない。 教会は重度の皮膚病を患ったシモンに代表されるように、清められた罪人から成っている。

 そしてここはラザロの家でなくシモンの家(マルコ14・3)。祝宴は、シモンの家であったが、祝宴は、マルタとマリヤ、ラザロによってなされ、シモンは沈黙していた。

  ベタニタとは、貧しい者の家、苦悩の家を意味する。同じく、教会は外側では、貧しく、苦悩している。しかし内側には主の臨在があり、祝宴を持っている。教会生活の中で、私たちが必要とする第一のものは主の臨在。主の導きとシンクロニシティがなければ教会生活は空虚だ。教会は、主と主の民が共に集まって、互いに祝宴をし合い、互いに享受し合う場所で、外の人はこれを理解しない。

 

2 教会生活の機能

 

       教会生活の機能にはさまざまの機能がある。それは三人の人物で代表されている。第一は、マルタで、「給仕役」で、仕える機能。食事の準備には彼女が必要、彼女は実行的で、勤勉で、有能で、行動的で、生き生き生きしている。

  第二は、ラザロに代表される証しの奉仕。彼は何もせずただ主と共に食卓に着き、祝宴を享受していた。しかし彼は復活の命の中で生きた証しであった。復活の命の証し人で、彼は人を引き付けた。

   第三は、マリヤによって代表される最上のものを捧げる、注ぎ出す奉仕。彼女は高価な香油を主の足に注ぎ、自分の髪の毛でその足を拭った。主を愛することは尊ぶべきことである。これが教会生活のしるしだからだ。最上の愛をもって主に油を注ぐことが教会生活のしるしの実際で、表現である。

   仕えること、証しすること、愛することの三つが教会生活の機能で、奉仕、証し、注ぎ出す愛である。これら三つがバランスよく表現されて健全な教会生活と言える。主のための奉仕、主のなしたことの証し、主に注ぎ出された愛の三つはなくてはならぬものである。ですから私たちは、いつでも「わたしはマルタ・ラザロ・マリヤです」と答えるべきである。

   この奉仕、証し、愛は、主イエスがわたしたちにとって復活の命であることから出てくる。 しかしながら、ここに描かれている教会生活の絵の中で否定的なもの、ユダの黒い汚点がある(12・4)。ユダは、主を愛する以上にお金を愛した。よってマリヤがなしたことを評価しなかった。それが「浪費」であると考えたからだ。ユダの金銭愛は、主を愛するどころか、裏切った。これは。教会生活の中しばしば繰り返される恥。このように教会生活はテストで人を暴露する。

 

3 一粒の麦

 

       ラザロをイエスは死の中から復活させられたので、ユダヤ人の大群衆はイエスを温かく歓迎した。この時、イエスは人生で最高の栄光ある時にいた。すべての人が彼を賛美し、ほめたたえ、尊敬した。だがそれが、教会を生み出し、増し加えた訳ではない。これは教会を増し加える道ではなかった。イエスは、ユダヤ人、ギリシャ人の両方に歓迎され、ほめたたえられたが、彼らに対して冷淡になり、自分が一粒の麦であると告げられたのである。

        「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。これが、主の態度であった。一粒の麦が増殖する道は何だったのか? それは賞賛されることでも歓迎されることでもなく、地に落ちて死ぬことによった。これが教会を生み出し、命の中で増し加わる唯一の道であった。人の歓迎がある時はいつでも、「私は死ななければならない」と言わねばならない。

      人の栄誉が来るときは、「私は葬られなければならない」と答えるべきなのである。「ハレルヤ、主を賛美します」とは言ってはならないのであって、たとえその時が神に栄光を帰すことであっても、神の栄光を帰す正しい道は、死んで葬られることなのである。教会が増し加わりを持つのはいつでも迫害の時であった。温かい歓迎の期間ではなかった。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままであり、決して何も生み出さない。しかし死んで成長すると、

    その一粒は多くの穀粒を、多くの実をもたらす。これが教会であり、主が教会を増し加えられる道である。増し加わる道は、人の栄光によるのでなく、十字架の死による。

 

 適用 

     洗礼者ヨハネは言う、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)。主とその教会が栄えるには、私が衰えねばならないのである。死なねばならない。十字架をとらねばならない。人の外側の活動の一時的な成功によって、煩わされてはならないのだ。イエスは地に落ちて死なれ、復活の中で多くの信徒を生み出した。

    イエスは温かい歓迎よりも、地に落ちて一粒の麦として死ぬことを選んだ。彼の魂の命は失われたが、彼の永遠の命は多くの麦粒に命を与えた。地に落ちて生み出された多くの麦粒は、主が木に上げられて引き寄せられた「すべての人」であったのである。私たちの教会はベタニヤ・ハウスでありたい。そこに住む者はみな、奉仕、証し、愛をもって生活するのである。教会が存在し、増殖することを願うなら、私たちは死ななければならない。魂の命を失う事である。

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