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「 偉大なる大祭司イエス 」

    新約と旧約の継ぎ目にヘブライ人への手紙(以後、ヘブル書と呼ぶ)は位置している。著者はパウロではなさそうだが旧約をよく味わったユダヤ人キリスト者でパウロの思想に傾注していた人物と思われる。この書は、小アジアのミレトスで書かれたのであったが、その執筆時期は、ローマによるエルサレム城の陥落した紀元70年以後の80~90年代と思われる。それはこの書が書かれた目的にも関係するが、多少信仰を失いつつある者、すなわち福音の原理から離れて、ユダヤ主義に戻ろうと傾きだしたものを励ますことのためである。

 

 

1 越える者

      この書は、聖なる生活を勧めている。それは、キリスト教の初歩に止まることをせず、進歩を続け、12章14節では「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」と言い、13章では聖なる道への勧告がなされている。新共同訳聖書では、ギリシャ語原典のヘブライオスという表題が用いられている。ところが他のものはヘブライ人の英語訳ヒブリューから音訳し、ヘブルとした。本来ヘブル語では、イブリーと言い、アバール「越える」を語源

とし、「河を渡る」、すなわち川のこちら側から向こう側に越えることを意味している。従ってヘブル人とは川を語る者であり、アブラハムはそのような人であった。彼の名前はアブリームともイブリームとも発音できるのは興味深い。そこでヘブル書における神の意図は、ローマ軍によるエルサレム城の陥落によって恐れおののいたユダヤ人キリスト者が、律法を離れて恵みの側に渡った者であること、旧約の儀式の奉仕を離れて新約の聖霊に奉仕する者となること、すなわち、ユダヤ教を離れて教会に渡って来たものであること、地上の事柄を離れて天の事柄に渡って行くこと、祭壇のある外庭を離れて神のおられる至聖所に渡って行くこと、魂を離れて霊に渡って行くこと、信仰の初歩を離れて信仰の円熟に渡って行くことであった。信仰によって神に触れた者はみなこのように川を渡る者であれ、これがこの書の目的であった。

 

2 祭司とイエス

 

    イエスは天使よりも偉大で、預言者モーセの完成された人であると第1章から第3章で説明し、そのイエスのみことばに聞き従おうと告げる。面白いのは第4章から第10章のイエスと祭司との関係である。祭司は、レビ族、アロンの家から出るべきであるというのが慣例であった。ところが大祭司と呼ばれたイエスはユダ族である。これに対する、ヘブル書の著者の弁証は、こうである。ヘブル人の始祖アブラハムは、メルキゼデクから祝福を受けたではないか。それはソドム、ゴモラに捕えられていたロトを、300名の手勢で攻め滅ぼして帰った時で、アブラハムは捕獲物の10分の1を捧げて祝福を受けた。これを見てもアロン族だけが神とのとりなしをするのではない。またメルキゼデクはアブラハムよりも偉大であって、彼を祝福した。彼は優れたサレムの王であったがイエスのその比ではない。祭司は1年ごとに贖罪をしなければならないが、イエスは十字架に架かって永遠の贖罪を遂げたではないか。またアロン族の祭司は、人の子にすぎないが、イエスは王の部族であるユダ族であり、大祭司メルキゼデクの予型の完成として祭司職と王職を一つに結び付けた。しかもメルキゼデクのように系図なく、父は母もなく、生涯の初めも終わりもない永遠の方以上の方としてイエスを位置づけた。神の子としてのイエスは、永遠の神として系図なく(ヨハネ1章1節)、永遠の命、復活の命、死と地獄を通過した命であり、人の子としてのイエスは、系図があり、父母があり、被造物であった。よってイエスは神性と人性を合わせ持ち、アロン族の祭司よりも、超越的大祭司メルキゼデク王よりも優れたお方であった、と言うのである。こうしてレビ族でなければ祭司にはなれないと言うイスラエル人たちに反論し、イエスは大祭司であった、と言った。こういった立場から、次に旧約の律法はやがて来ることの「影」「天の影」であるということを論証する(10章1節、8章5節)。レビ族の祭司たちは、影の幕屋であって、来るべきイエスこそ真の祭司であり、イエスは御自身の血をもって罪を贖ったのである。完全に罪を取り除くのは、牛や山羊の血ではできないからである(10章4節)。かくしてイエスの犠牲祭儀により人は罪赦され、救われた。この十字架愛、贖罪愛の意味を理解していないと信仰がぐらついてしまう。十字架が天の愛を現しているように、イエスは大祭司であり王であることを表象している。のみならずイエスの流した血は、父なる神へ捧げられ、天に昇った。聖別され、罪と汚れの道を離れ、聖なる生活へと向かった。よってヘブル書の著者は、私たちもイエスの心持をもって、罪の生活を捨てて、勇ましく聖なる生活の道へと旅立たねばならないと言う。その意味で、私たちの人生は、この世を越える天への出エジプトであり、真の至聖所は、肉の教会ではなく、霊の教会であり真の大祭司であり、羊飼いであるイエスにつき従って引き上げられて行かねばならない。初心の信仰では駄目である。進歩しなければならない。そこで著者は第11章で成長した信仰の旧約の信仰者を紹介する。

 

3 成長した信仰

 

     信仰の機能は、主の働きを私たちの中で実体化することである。第11章1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信することである」。確信とは実体化することで、信仰は、実体化することである。信仰は無から有を造り出すことではなく、存在するものを実体化することである。信仰は、夢や空想を語ることではなく、既にあるものを現すことである。神はすべての働きをみことばの中に置かれた。そのみことばを通して命、富、食物なるキリストを享受するが、それには信仰が機能しなければ、実体化することが難しい。

 

 適用 

       ローマ軍によるエルサレムの陥落の後、ユダヤ人キリスト者は信仰の危機に瀕した。そこで信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さず、絡みつく罪をかなぐり捨てて、神に喜ばれる生活を歩め、安息をめざすべきであると言う(12章1~2節)。そのためには神の言葉をしっかりと握りしめることであると勧める(4章12節)。神が私たちの内に住み、私たちの体を神の至聖所とし、偉大なる大祭司イエスのとりなしを受けたいものである。

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