「 神の愛と十字架 」
キリスト教は十字架を重んじる宗教である。そして神より十字架の方を重んじる。その理由を考えてみよう。また祈りの後にイエス・キリストの名によってと言うのか?神そのものを信じるのが宗教なのに、イエスとか十字架とかを言わなくてもよさそうなのにと考える人もいる。神は要るけどキリストは要らない、イエスは要るけど十字架は要らないという考え方もある。神を信じさえすればいいのであって、キリストを神の子としたり、十字架刑に意味を持たせたりするのは間違いという人もいる。ところがキリスト教は、十字架を信じて来たのである。
1 十字架を信じるとは
使徒パウロはキリスト教が大嫌いであった(使徒9章)。なぜかと言うと彼は、神は要るが、キリストは要らぬという思想を持っていたからであった。天地万物を造られた神と、はりつけに架かったイエスとは何の関係もないと思っていたからである。そしてイエスを通して人類再生の原則が予定されていることを知らなかった。再生の原則と言うのは、病気をしても自然に癒され回復する法則である。行き詰った人もそれを突破し、脱出する再生の原理である。かくして十字架こそ神の内容、神の性質を意味していることに気づいたパウロは奮然と立ち上がった。
神は再生・回復の力を与え、どんな人にもやり直す力を与えている。敗者復活の道こそ十字架の意味するところと知ったパウロは、どんな罪深い人でも改善し、改良し、良くなり、癒すのではなく、死んで葬られ、新しい命をもって復活することを発見したのである。これをいろんな形で説明しようと努力した。 もちろんパウロは生きていた時のイエスに一度くらい会ったかもしれないが、彼が知っていたのは歴史的、肉の十字架ではなく、霊の十字架であった。キリストは何故はりつけに架かったのかという、その目的を見い出したのであった。
2 十字架の必然
ではイエスは何故に十字架を選んだのか。それは神の予定されたことであり、イエス自身が選択された道であった。なぜ死ぬことを選択されたのか。これは旧約の中を探らなければわからないことである。十字架への選択は、常識ではわからない。パウロもこう言っている、
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われた者には神の力です」(Ⅰコリント1章18節)。「十字架の言葉」とは、十字架の発表、語りかけ、宣べ伝えである。これは救われていない人には馬鹿臭いものだけど、旧約の心をもって見ると分かることなのである。パウロはイエスの十字架は、神の救いの中心であり、神の力として強調し、この十字架と十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと決心したのであった(Ⅰコリ2章2節)。パウロが考えついたのは、十字架は神の義の要求によるものという事だった。神は愛であることも事実なのであるが、人の中に罪があることもまた事実なのである。この罪をあわれみもなしに裁かれたのであるなら、神に愛があると言えるだろうか? また罪を放っておくならば、神には義もなく、人をサタンによってもたらされた罪の束縛から解き放つことも出来ないのではないか、神の義がないではないかと、言う事になる。神の救いをもたらすには、償うべきものは償わねばならない。
かくして神は、主イエスの十字架によって神の愛を現し、同時に、神の義を現されたのである。 よって十字架は神の義が現された場所であった。 神は罪を憎み、罪を裁くことを決心され、進んでご自身の御子を十字架につけ大いなる代価を支払った。もし神が御自身の義を放棄されたなら、十字架は必要なかった。ところが神は御自身の義を放棄されなかったので、御子を死に渡し、御自身の義を保たれたのであった。 また十字架は、神の愛が現された場所でもあった。神は進んで私たちの不義の重荷を負って下さったことによって、御自身の愛を現されたのであった。 一つの例証を挙げる。私たちは神に百万円の負債があるが、それを支払う方法がない。神は私たちを愛しておられるので、返すように求めない。しかし、神は義のお方なので、それを返す必要はないとは言わない。他人のお金にいい加減であることを放置するなら他の人に対してもいい加減になり迷惑をかけ、信用を失うからである。そこで神は、神御自身が来られて、私たちに返済することができるだけのお金を与えてくれたのである。それで私たちが負っている負債を返すことができる。もし強制的に払わされたなら神には憐れみの心がない。ところが神が支払者となったので、愛が維持され、集金も出来たことから神の義も満たされた。集金人が、支払者だった。これが聖書の中にある「罪の贖い」の意味である。こういうわけで、神が人と成り、十字架上で私たちの罪を担われたのである。私あっちの罪は十字架のイエスの身の上で神によって裁かれた。イエスの流された十字架上の血は、この裁きの証明であった。かくして私たちのすべての負債は支払われたのであり、十字架の血はその負債が払い戻されたことを証明する受領書なのである。
かくしてパウロは肉体を十字架上で滅ぼして、新しい霊体に甦る。そうすれば私たちの罪は一度消えると、このような妙な哲学を考え出したのである。これがロマ書第6章のパウロの思想である。つまり肉体を滅ぼして霊体に甦る為に、その人を磔刑につけて殺すということを真面目に考えたのである。こんなことは常識じゃ通用しない。ところが神の方から見れば、神は常識では判断できない。よって聖書を読むより仕方ない。人間が失望しても常識を超えて神は恵みを、十字架を通して私たちに注入する。これを説いたのがパウロであった。このことはロマ書7章、8章に詳しく出ている。こうして神の愛が十字架において現われることをロマ書8章35節~39節に書いたように、キリストの愛から離れることができなくなった。かくしてパウロはこの十字架愛を伝えようと、霊体の甦りと再生(回復)の信仰を伝えて廻ったのである。悪い人間でも救われる、再生する、というのはキリスト教における大発見であった。
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適用
十字架は意識と言ってもよい。その意識を持ったのはイエスであった。それは隠れていたがパウロが発見し、イエスの気持ちを解釈した。神の愛と神の義に対する思いを貫いているのが十字架に現われた意識という。この十字架意識がはっきりすれば、人の為に死ぬ覚悟も「損失」を被ることも出来なくはない。パウロはこれに気が付いたので、こんな偉い人がいたのか、この人こそ神の子に間違いない、否、神そのものだ。
十字架のキリストこそ神そのものだと確信したのであった。イエスは受難を生涯の目的としたし、十字架意識を以って仲保者として私たちを神の方に引き上げ、行き詰まりに遭った私たちを救い出してくれるのである。十字架こそ勝利への道、再生(回復)への命なのである。この十字架を握りしめて歩んで行きたいものである。