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「ヨセフに見るキリストの面影」

ヨセフにはキリストを予表した面がありました。それは、⑴牧者です。⑵父に愛されました。⑶父の意志通りに行われました。⑷しかし、それにより同胞のユダヤ人たちにより憎まれ、陰謀や殺される企てを受けましたが、⑸彼らは命に満ちて輝いている者として見ました。⑹しかし裏切られ、価値が低められ安い銀貨で売られました。⑺死の獄に渡され、2人の犯罪人と一緒におり、一人は救われ、一人は滅びました。今回はヨセフのキリストとしての面影を取り扱います。


1 御座に着く

ヨセフが牢獄から解放されエジプトの地を治める支配者の座に着かれたように、キリストも死の獄から解放され、権威をもって神の右の座に着かれました。使徒2章36節は、十字架につけられ復活せられたイエスは、神によって「主またはメシヤ(キリスト)とされた」と言っています。ペンテコステの日に、ペトロはイエスは万物の主となった、つまり御座に着かれたと言っているのです。


2 栄光を受ける

またイエスは御座において、栄光と栄誉の冠を受けられました(ヘブル2章9節)。同様にヨセフも牢獄から解放された時、栄光と栄誉を受けられました(創41章42節)。神は牢獄の穴から引き上げただけでなく、栄光を与えられ、亜麻布の衣を着せられ、王の第二の車に乗せられました。

3 賜物を受ける

さらに彼は王座に引き上げられた時、王の印章のついた指輪、亜麻布の衣、金の首飾りを与えられました。イエスもまた復活し、神の右に引き上げられた時、聖霊という賜物を受けられました(使徒2章33節)。私たちも救われた時、救いの証印、神の聖霊を注がれ証印を押されました。それは神の名が刻まれている証印の指輪によって押されたのです。ですから私たちは救われて証印を押された人は、主に属したくない、サタンいついていきたいと思っても決して離れることはできません。たとえ地獄に行ったとしても、やはりこの証印を帯びているのです。誰でも主の名を呼び求める者には、この証印が押されています。いまや私たちの内側にも、外側にも証印があります。ヨセフが受けた第二の賜物は、衣でした。私たち信徒には少なくとも二枚の衣が必要です。救いの為の衣と褒賞の為の衣です。救われ義とされる衣を受けた後、前進して勝利の命を生きる必要があります。そうするなら救いの衣の他に、もう一つの衣を受けます。客観的なキリストの他に主観的なキリストを受けます。キリストの他、この宇宙には何の義もありません。この宇宙で神の義を満たすお方はこのキリストだけです。それはキリストの信徒たちの上に置かれるために、キリストにだけ与えられた義なのです。

私たちは誰一人義であると言うことはできません。だれ一人善なるもの、正しい者はいないからです。ただキリストだけがその義を持ち、私たちを義とするために(これを「義認」と言います)客観的に私たちの上に置かれたのです。さらにこの置かれた義は絶えず主観的に受け取る実体の義であります。保険証書は第一の衣であって持っていても、必要な保険料を支払っていないと褒賞を受け取れません。褒賞を受けるには第二の衣を得る必要があります。それは支払いがなされた第二の保険証です。ヨセフが受けた第三の賜物は、首にかけられた金の首飾りです。これは服従する意志を表徴。聖書でイスエルの民が不従順で、かたくなであった時、神は首の堅い民(stiffnecked people)」と呼びました(出32章9節)。その首が征服されて神の戒めに従うよう意志を表明した時、首にかけられるのが首飾りです。夫と口論するネックレスをつけた夫人はネックレスを外すべきです。男性のネクタイもまたこの鎖の首飾りの一種です。つまり首のかけられた金の鎖の首飾りは、従順のための霊を表徴しています。

使徒5章32節はその聖霊は神に従う人に与えられるとあります。「神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊」と。ですから聖霊は、救いのための賜物としてだけはなく、従順のために与えられたのです。指輪、首飾り、衣の三つの賜物の順序は、霊の順序に従っています。霊の順序では、救いのために受けるのが証印です。次に義の衣を受け、キリストを生かし出します。それを実行するためには首に首飾りをつける必要があります。それは聖霊によって征服され、服従させられ、鎖をかけられねばならないことを意味します。聖霊はあなたの硬い首に鎖をかけ、首を柔らかくし、服従させます。その時、肩甲骨の柔らかくなり、健康が与えられます。腎臓病も、糖尿病も、肩こりも、手のしびれも、足のしびれも腰痛も治ります。多くの聖徒たちは教会生活で首に金の鎖をかけられました。硬い首の人は、首を柔軟にしてください。そうすれば、父と母に服従するようになり、。上司に対しても柔らかくなり、そればかりか金の美しさを持ち、輝くようになります。暗い顔をしていた人が輝くのです。

4 教会をめとる

また創41章45節でヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻に迎えます。彼女はエジプト人で、異邦の人。これはイエスがイスラエル人に拒絶されている間にどのように異邦人を妻にめとったかを描写しています。創世記の中で、教会を描写している三人の妻がいます。アダムの妻エバ、イサクの妻リベカ、ヨセフの妻アセナトです。これらによって聖書は教会がどのようにキリストから出て来たかを示します。エバは教会がキリストの一部であることを描写し、リベカは選ばれた者、キリストと同じ源からの者としての教会を描写し、アセナトはイエスは神の民に拒絶された期間、異邦人世界にとどまり、異邦人世界から教会を受けられたことを示します。そしてヨセフはアセナトとの間にマナセとエフライムを生みました。「マナセ」とは、「忘却」を意味します。彼は全ての苦しみを忘れ、教会を生み出したキリストのようでした。第二の息子の名はエフライムで「結実」を意味します。実を結んだ時、苦しみは喜ぶに変わります。

 適用 

ヨセフは飢饉の人々に食物を供給しました(41章56~57節)。それはキリストを予表します。それは無尽蔵の供給です。主イエス・キリストの豊かさは尽きることがありません。キリストを内に抱いて豊かさを享受しましょう。


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