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「ガリラヤ湖畔のイエス」

 イエス様が十字架に贖罪の死を遂げられたと聞くや、今まで突き従っていた多くの弟子たちは、散り散りに逃げ去っていったその多くは漁師だったので再びその仕事に戻って働くことになった。ヨハネ福音書21章には、初めの方に漁師たちの名前が挙げられていますが、その中にトマスやナタナエルの名が挙げられています。彼らは漁師ではなかったのですが、仕事がなかったので同志を頼って行き、そこで漁業に従事したものと思われます。ところが「その夜は何も獲れなかった」とあるように少しも魚は獲れなかった。このとき主イエスが彼らを見守っていたのであるが、そのイエス様についてお話ししたい。

 

 

 

1 復活のキリスト

   漁業は夜になって網を下ろしていた。ガリラヤ湖畔にはティベリアスという町がありました。ヘロデ・アンテパスが創った町で、別荘などがあり非常に盛んな町であったため、後にはガリラヤ湖をこの町の名で呼ぶようにさえなり、「ティベリアス湖」と言いました。イエス様は復活の後、弟子たちにティベリアスに帰れと言われたので、弟子たちその通りにしたのであったが、漁獲が少しもなかったのでたちまち失意の底に沈んでしまいました。ガリラヤ湖畔の春の夜明けのひと時でアネモネの花が朝露に輝いていました。

  湖は深く、色はコバルト色をしていました。形は琵琶湖に似ていました。いつもならばこの湖は魚が豊富で猟師たちは引き上げられた魚をティベリアスの町やカペナウムの、遠くはエルサレムまで売りに行くのでした。 ところがその日に限って少しも漁獲なく、漁師たちは失意の顔で岸辺に戻った時、日頃、師として慕っていたキリストの姿があったのです。「あ、誰かがいる!」とヨハネがその姿を見つけてまず叫びました。その人は舟の右側に網を打ちなさいと言うのでそうすると、網一杯の魚が獲れました。 ヨハネが「先生だ!」と叫ぶと、気の早いペトロは慌ててもうキリストの側へ跳んで行き、湖に上着のまま飛び込んだのでした。

   さて、陸に上がってみると復活のキリストは炭火をおこしてパンと魚とを用意して弟子たちを迎えました。「さあ。朝の食事をしなさい」と言われました。魚を焼いてあって章氏達が取った魚を使わないでも済むように気配りをしていました。イエス様は本当によく人の心を見抜く人でした。そして気が付きだけでなく先手をとって親切に実行してゆかれました。晩餐会の時は足を洗う水を用意し、そればかりでなく、人の足を自ら洗っておやりになりました。イエス様はそんな優しい方でした。

 

2 下座奉仕するイエス

 

   イエス様が弟子たちの足を洗った話はヨハネ福音書13章の初めに出ています。その中で「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)とあります。イエス様は下座奉仕をなされ、それを実行されました。

 私たちの隣人への親切は、途切れがちとなり長続きしない欠点があります。ところがイエス様のすることは極みまで行き届いており、ほんとうに徹底していました。 イエス様に行くところ、人々は大勢の子どもを連れて来ることを弟子たちは遠慮していると、イエス様はその遠慮は無用ですと言い、どんなにやかましくても叱らず子どもたちを愛されました。これは感心することで、繰り返し繰り返し同じことを尋ねて来る人や、電話をかけて来る人がいるのですが、見習わねばならぬと、叱らず受け止めるようにしています。これが愛だと考えています。いや注意して、叱る必要がある、とある人は言いますが、注意して変わる人はそう多くはいません。まして知恵の発達障害を持っている人にはいくら教えてもそう簡単には治るものではりません。ですから耐えることが愛だと考えています。

   そういうと愛するとは簡単な事ではありません。自分との闘いです。 イエス様は女性から油を塗られたり、足を洗われたりして普通ならばうるさくて耐えられないところを平気に、なすままにさせて、「これは葬式の準備だ」と言って多くの人を驚かせました。それは漁師たちに魚とトーストを備える心持と同じもので、徹底した親切心から出たもの以外の何ものでもありませんでした。キリスト運動、祈りの運動の極致はここにあると考えます。伝道の極意はここに発見できます。耐えることです。ちょっと伝道して実を結ばないと諦めてしまう人がいますが、面倒な事にでも耐える必要があります。下座奉仕する心がないとうまくいきません。

   イエス様の弟子たちがキリストを記念するために愛餐式(アガペー)を創って、聖餐式と共に紀元5世紀頃、すなわち、ローマ帝国が滅亡する頃まで、この儀式を守っていた弟子たちの心持がわかります。これは愛の行為の勃興です。ジョン・ウェスレーの現われた18世紀の英国の時がそうでした。いつの時代でも宗教運動が盛んになると愛の行為が勃興します。イエス様は失意の弟子たちに誰よりも先にパンと魚を備えました。しかも漁師たちに魚を焼いて備え、満腹するまで与えたのです。そうして「今とった魚を少し持ってきなさい」と言われました。何から何まで施して、人に頼ろうとする心を起こさせまいとする用意であって、人に施す者が常に心掛けていなければならないことです。漁師たちに魚の獲り方を教えたあとは、彼らの努力に任せました。

 

 

  

        適用 

  イエス様は人は、他人に頼ることのないように注意を払われ親切を行ないました。愛の行為は人に依頼心を起こされるものであってはならないのです。ですからまず神に祈り、神にのみ依存するように導く行為は愛の業であることを示されたのです。

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