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「 尽きざる油壷 」

  旧約の物語の中で預言者エリシャほどユニークなものはない。彼の存在そのものが超国家的権威を意味したので現代の政治的状況を考えるにあたって大いに参考になると言える。ではエリシャはどのような人物であったのだろう。

 

 

 

1 祈りの人物像

 

    エリシャがアラムに革命が起るように祈ると、直ちにベン・ハダドは暗殺され、ハザエルが次の王になった(列下8章15節)、故国イスラエルの革命を思うや、暴妃イゼベルの遺体は犬の餌食となる(同9章36節)。彼が水に向かって枝を投げつけるや、水の中に落ちた鉄の斧は波上に浮き上がり(同6章6節)、彼が主に祈るやアラムの大軍は目をくらまされた(同6章18節)。エリシャは王の王にして大軍にも勝る力そのものであった。このエリシャの物語を読むと、そこには窮乏、困難、悲しみ、絶望に対する神の慰めが満ちているのである。そこには奇蹟が満ちており、暴虐の嵐の時代の中に祈祷と柔和がいかに大いなる力であるかを示している。エリシャの前に暴君もアラムのような強力な武装国家も勝ち得ないというのが、既に奇蹟なのではないか。

 賀川豊彦先生が協同組合を創り、貧民救済から防貧対策へと実践していったのも奇蹟ではないか。このように私たちもまた奇蹟によって成長する。神が勝利し、権力が敗れるのを教えるのは、奇蹟を教えるしか道はない。十字架で敗れたイエスが、二千年の今でも語り伝えられ命を持続しているのに対し、勝ったローマ皇帝の権力が崩壊したのは永遠の奇蹟ではなかろうか。奇蹟は天地万物を造られた創造の神を肯定すれば容易に肯定できる事柄である。資金、軍艦、食料、兵力がいかに多くあろうと勝つとは限らない。昨日と今日では同じように見えても決して同じではない。地球は高速度で回転し、移動しているのであるから同じはずがないが、人は勘違いし、同じだと思い込み、的外れな事ばかりしている。人間の思惑以上のものが働く、それは歴史の舞台なのである。暗黒の時代にエリシャの如き最も偉大な祈祷の人が現れたのである。彼は徹頭徹尾、祈りの人で、彼が祈ればアラムのナアマン将軍の重い皮膚病も悉く癒され、彼が祈れば死んだシュネムの婦人の独り子もたちどころに甦った。この祈りの力を十分に知っていた預言者エリシャは、常に弱者の友、貧しき者の友であった。シュネムの婦人の孕まない胎を開き、借金で窮していた仲間の預言者の寡婦のために負債を保証し、エリコの住民に悪い水を清めて飲める水を与えたのは、エリシャであった。

 

2 負債者の助け

 

    ある冬の黄昏時、仲間の預言者の寡婦が突然エリシャの下に助けを求めてやって来た。彼女は子どもを抱え、借金を抱え苦しんでいた。彼女は夫が残した借金のために、2人の子どもが奴隷に売られるところだと聞かされ同情せざるを得なかった。エリシャは金持ちでなく金もなかった。しかし彼は「何をしてあげられるだろうか」と考えた。「あなたの家に何があるのか」と尋ねると、「油の壷一つのほか、何もありません」と答えた。「よろしい、では近所の人たちから油を入れる空っぽの器を沢山借りて来なさい。その油壷にあなたの家の残った油を一滴づつたらして、油が一杯になるのを待ちなさい。一杯になったら脇にのけて、また新しい壺をそのようにしなさい。借りられるだけの器に油を満たし、それを売って、あなたの家の借金を支払いなさい」と告げたのであった。

  かくしてその寡婦はエリシャの言葉通りに実行した。彼女は子どもたちと部屋の戸を閉めて閉じこもり、油が一滴づつ滴り落ちるのを待ったのである。すると不思議な事に、油は壺の底からずんずん湧き溢れしばらくの間に多くの器が満たされた。彼女は、子どもに「もっと器を借りておいで」と言うのだったが、「お母さん、もう借りられる器はありません」と答えると油は不思議に湧くのが止まった。それでそのことを彼女はエリシャに知らせると、「売って借金を支払え。残りで生活しなさい」と言われたのであった。かくして奴隷に売られる子供は助かった。これは麗しい信仰の記録であり、神の恵みである。

  私たちは、この寡婦のように多くの負債をしている。物質的にも、精神的にも多くの負い目を負っている。これを解決しなければ自由になれない。これをどうすべきか、これを誰が贖ってくれるのか、こう思ったとき、イエスの十字架での贖いに思い至る。賀川豊彦はこれを「人の尻拭い」と呼んだ。イエスは私たちの罪の負債の尻拭いをなされたのだ。今、世界中には多くの困窮している人がいる。エリシャはその解決方法を考えた。

 

3 湧き上がる恵み

 

   エリシャは、貧しき者の友であった。彼は寡婦に言った、「何もないと言ったって、少しくらい何かがあるだろう」、「はい、少しだけ残っている油の壷があります」。 イエスは同じように五千人の群衆に食べ物を与えようとして尋ねた。「食べ物は何かあるか」と尋ねた。「はい、あるにはあるのですが、五つのパンと二匹の魚しかありません」。ところがイエスはそのわずかの食物を持ってくるように言うと、祈って、五千人の腹を満たされた。 このように私たちの持てる物はたとえわずかでも、信仰を以って献げる時、これを祝福し増殖してくださるのである。否定するところに祝福は来ないが、肯定するところにはたとえ一滴しかなくても、神は必ず祝福し、満たしてくださるのである。僅かの信仰でもあるだろうか?「少しくらい何かがあるだろう」と尋ねられた時、一滴くらいの油しか無いので、「ない」と否定的に答えるなら恵みは湧き出さないのである。たとえわずかでも「ある」と答えなければならない。私たちには何があるのか。持てる者は与えられ、持たざる者は奪われる。困窮からの解決方法は、僅かながらでも私たちの手の中にある物にある。

  エリシャは、女に近所に行って空っぽの器を借りに行かせた。油そのものや食物は貸してくれないが、使ってない空っぽの器なら貸してくれる、と考えた。これが面白い、私たちも空っぽの器を借りてくればよい。廃品が神の恵みに役立つのである。神は盲人の目を開き、足の不自由な者を立たせ、いと小さき者を大いなる者とされた。その不思議な力が、役に立たない空っぽの器に油で溢れさせたのだ。これが恵みである。

  ジョージ・ミューラーは一万数千人の孤児を救済するのにあたって、寄付を頼みに行ったことがなく、ただひたすら密室の閉じこもって神の祈り、膨大な寄付を集めると言う奇蹟は決して嘘とは言えない。エリシャの奇蹟は、今日の奇蹟でもある。人の奇蹟でなく、私の奇蹟なのである。借りた器、空瓶をも祝福する。借り物でもよい。すべて良いものは借りて来て祝福する。そうするなら器の底から油が湧き出して、一杯になるのだ。イエスの祝福はパン種だった。それは内からおのずと膨れ上がった。良い事のためには借りて来て祝福すると、そこに油の湧く音を聞くことができる。借りて来て、祈るだけで恵みが湧き出すのである。そして「ありません」と言った時に、その恵みは止まる。

 

 適用 

    油が湧き続ける尽きざる油壷を想像しようではないか。エリシャの油壷よ、湧き上がれと祈ろうではないか。今日、借金で泣き悲しんでいる家族がいる。彼らは油が湧き出るのを待っている。これはエリシャのような祈りが必要なのである。彼は国家を超越する祈りの力を帯びていた。彼はアラムのベン・ハダド王を排し、ハザエルを立て、イスラエル王ヨラムを排しイエフを立てた。彼は天下を動かした。隠れて大きな仕事をした。私たちにも神に守られる奇跡の生涯がある。それをつかみ取って行く信仰を生きていこう。

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