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「贖罪愛としてのキリスト」

 旧約時代には法則を犯すものを罪としたが、イエスは成長しないのを罪とした。夜は11時まで、朝は5時に起きて勉強をすべきなのに怠けて勉強しなければ、罪を犯しているとした。この事をイエスは『タラントンの譬』で弟子たちに教えた。

1 十字架愛の生涯

パウロは、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:6-8)と叫んだ。主イエスは、わたしたちが正しい人でもなければ奇特家でもない実に一介の罪人であったにも過ぎない時に、十字架上に御自身を屠って我らの救い主となられたのだと宣べている。これはパウロの心の奥底からの声である。彼は主イエスの十字架を通して神を発見したと証ししたのである。傷ついた部分に向かって、傷つかぬ部分が補修する、そのために犠牲となる、損失をいとわないで癒そうとする作用を贖罪愛と言う。贖罪愛とは、人の欠点を責めないことである。責めないばかりでなく、人の欠点を自分の欠点として自分の身に引き受けりという行為であると言ってよい。 人間同士でも、困難に遭っている人に対して、その人々の苦しみを担ってあげようという気持ちこそ隣人愛である。このような意識がなければ善い社会はやって来ない。みんなが自分の事ばかり考えて、自分さえ良ければ他人がどうなろうと構わないという考えでは決して、個人も、家庭も、団体も、社会も、国家も良くならない。他人の欠点を引き受け、他人の失敗を自分の失敗として背負うところに、主イエスが自らを十字架につけた愛の道がある。これが十字架愛の道である。 この精神はイエスにあってその生涯を愛し続けるものとした。普通の人ばかりでなく、始末の悪い、やくざ者、罪人をも愛された。更に彼自身を憎み、敵対し、陥れようとする者をも愛された。それは神の愛以外の何物でもなかった。 このイエスとは一体何ものなのか。ユダヤの寒村に生まれ、ナザレという小さな村の大工の家庭に生まれ、30歳で公生涯に入り、約3年間伝道し、エルサレムで死刑に処せられた人物である。この人物を知り、発見することが生命を発見する事になるのである。その時私たちの生涯は輝きの生活に変化する。イエスの愛は、神そのものを示したものである。よってイエスの十字架愛は神へとつながる道である。十字架上のイエスの姿こそ、神の愛の美しい姿である。 その十字架の生涯がイエスの倫理として現れている。右の頬を打たれたら左の頬を向けよ、上着を乞われたら下着をも与えよ、1マイルを行くように強いられたら、2マイル行きなさい、あなたの敵を愛しなさい、という実行生活の生き方であった。それがイエスを十字架上に屠って全人類を救おうとする意志、すべての人の過ちや失敗を修繕して助けようとする意志として存在した。


2 修繕愛

この精神は弟子のヨハネにも現われた。ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネは、網の破れを補修する務めを果たしていた。彼は漁師であったが、人間をとる漁師となり、すべてを棄ててイエスに従った。ルカが85年頃ルカ福音書を書き、使徒言行録を90年から100年の間に書き、教会の発展を記録したが、ヨハネはヨハネ福音書を100年頃に書いた。

教会はペンテコステの日から存在し出していたが、その始まりから間もなく、多くの思想、意見、観念、哲学、教え、教理によって駄目にされ、損害を受けた。それらは霊的な網に多くの穴をあけられた。ヨハネは、その網を修繕するのが務めとしてヨハネ文書を書いた。キリストが受肉して人となった神であることを認めない何人かの自称クリスチャンによって教会は破損した。 これらの者をヨハネは「反キリスト」と呼んだ(Ⅰヨハネ2:18、4:3)。彼らは教会の霊的網に大きな穴をあけた。彼はそれを繕った。その方法は、初めからあった命による以外ないと主張したのがヨハネ福音書第1章4節である。受肉されたイエスの内に命があった。その命は人間を輝かす光であった。時間が創造される以前からあった命であるキリストによる以外に教会の空いた霊的網の穴を塞ぎ、修繕する道はないと主張し、永遠の命である主を呼び求めることが救いであると説いた。

万物はキリストによってでき、神は無から有を呼び出しただけだった。すべてが言、すなわちキリストを通して成った。よって私たちはこの主の名によって語るならばすべてのものが与えられると言うのである。神の言葉に力があるように、私たちが主の名によって語る言葉には力がある。主の名によって健康を願うなら、健康となり、必要を求めれば与えられるのである。これらのヨハネに現われた精神もまたイエスの贖罪愛の思想の展開であった。ここから犯した失敗や赦してやろうと言う生き方が起ったのである。


 適用 

キリストの生涯は、私たちの間違い、罪とが、失敗、弱点をことごとく贖い救ってくださる十字架愛、贖罪愛の生涯であった。

神は愛である。それは贖罪愛、赦す愛、人の欠点を責めない愛である。

贖罪愛に生きる者には、復活の再生力が与えられる。復活であり、命であるキリストによってよみがえりの力が私たちの内に宿り、神の力が与えられ、引き上げられる。キリストの愛に生きた者は、「一粒の麦」として生き、死は恐怖とはならず、むしろ他人の死をも負おうとする愛に生きるのである。私たちは、この主の愛に追従する実践者でありたいものである。


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