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「平凡の中の非凡の発見」

 マルコ福音書を読むと単純で、あまりに簡潔であまりに平凡な書に失望すら覚えなくもない。マタイ福音書なら有名な『山上の垂訓』があるし、ルカ福音書なら善きサマリヤ人の話とか放蕩息子の話とか、徴税人ザアカイの話がある。どれも魅力的な話であり飽きさせない。しかしマルコ福音書にはそういったものもなく、ヨハネ福音書のような深遠な真理もない。奇跡もあまり強調されておらず「平凡」ということの真理を知らされる。処女懐胎とか、死んで三日目にラザロが復活したといった記事は記されていない。マルコ福音書の奇蹟は、奇蹟は奇蹟でも、ごく平凡な奇蹟であって、イエスが人間的な歩みをした時に、行なわれた事柄をあっさりと記録しているにすぎない。ではそのような筆致をもってマルコは簡潔になにをするそうとしたのか。

 

 

1 平凡な人イエス

、 マルコ福音書に描かれているイエスは、弟子と共に歩み、食べ、寝て、接触した動静である。1章35節ではこう記されている、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とある。これに似た表現がルカ福音書4章42節にあるが、そこでは「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」とあって、イエスの祈りの時が夜明け前であったことが書き落されている。何でもない事のように思われるが、マルコ福音書では、こんなところに力を込めて書かれている。イエスは夜明け前に祈る習慣をもっていた。人の入ないところへ行って、一人で祈った。これが弟子達にはなんだか変に感じられたものとみえる。今日、一人で祈る習慣はあまりなくなってきており、「祈りなんて一体なの効力があるのか」と思う人もいる。祈りを軽視する人は決して少なくない。しかしイエスはこの平凡な事のうちに、不思議な力が浮かんでくるのを味わわれた。マルコ福音書では日常生活の中で神秘主義的な神との対座するイエスの姿が拡大されている。 このマルコ福音書では、いたるところでペトロが顔を出している。質問するのは大抵ペトロである。だからマルコ福音書を「ペトロ福音書」と呼べなくもない。おそらくペトロは自分の見聞を著者のマルコに伝え、それをマルコが書いたものであるらしい。人間的なイエスの姿が描かれており、イエスが起って血相を変えというような記事ある(3:5)。また弟子たちはパンを持ってくるのを忘れてイエスに叱られている(8:14-15)。しかもガリラヤでした活動だけがくっきりと描かれている。そこでは教えることよりも動くことの多い救い主の姿である。イエスは求められるままに多くの病人を癒している。しかも一回で治していないで、やり直してさえいる。そしてようやく癒したというような記事すら平気で記している。 イエスがベトサイダに行かれた時に、一人の盲人が人に連れられてやって来た。イエスはその盲人の手を取って、村の外に連れ出し、目に唾をかけて、両手をその人の上に置いて「どうです、何が見えますか」と問いました。「ええ、人が見えます。でも木が歩いているようようです」と答えるので、イエスはもう一度彼の目に手を当てて、やっとその目が癒されたことをマルコは記している(8:22-25)。このようにマルコ福音書のイエスは、奇蹟は行なうのだが、それもごく平凡な人間としての奇蹟であって、けっして威張ったり、奇蹟そのものを目的として民衆に接してはいない。むしろ民衆のより善き生活、より深き生活をうながすことを願った。マルコ福音書に一貫して流れているのは、大きな真理を持った人間の姿である。第7章では、人間の内部生活の動機に言及し(7:17以下)、第9章では、弱者への同情、第10章では高潔な生活(6:11-12)、貧民に対する心持のありかた(6:21)、第12章の愛の生活の主張(28-34節)のように平凡な人の内側に人格の閃きが侵入しているのを発見する。

 

2 超越的な力の働きかけ

イエスガリラヤ湖の湖畔で数名の漁師たちが網を打っていた。イエスはそこを通りかかり「君たち、魚を釣る代わりに人間を釣ろうじゃないか、やって来たまえ」と言って最初の弟子を招いた。考えてみるとそれは何でもない事のようであるが大きな真理がそこにあるのではなかろうか。朝から晩までただ魚のことを考えていた漁師たちにとって、正月が来ようが、大晦日であろうとただ大きな魚が引っかかる事のみを気にして、死ぬまで魚に心を引かれている。そういった事が私たちの日常の姿かもしれない。 そんな彼らに「人間を釣ろうじゃないか」と人間のために生きる、尽くそうではないかとの声が聞こえたのは大きな真理の閃きとなった。 日常の平凡さの中で、葦の不自由な人を歩かせ、荒野にサフランの花を咲かせ、砂漠に川の流れを導き、不毛の地を豊かにすることを考えるような幻を与えたのがイエスであった。彼は回復の力あるメシヤであり、決して行き詰らない救い主であった。平凡な日常の機械的な生活の中にも、なおキリストの足跡がある。表面的には偶然的な事柄であっても、その裏面には超越的な力が及び、働きかけ、非凡な事柄が現れ出ていることを発見することが必要なのである。マルコ福音書はそれを暗示している。

3.適用

憐聖霊の導きは、復活の命を与える霊がわたしたちの内側に内在し、「私は復活である」と言われたイエス、それも人となった神御自身と共に生きる時に示される。それは神のみことばにより、超越的な神の力が私たちに啓示を示すことによって私たちは大いなる閃きを与えられ、そればかりか奇蹟の業を起こすことによって確信する。いま起った出来事の一つ一つの内側に不思議な神の手が置かれており、その手をつかむ者に救いが約束される。わたしたちは平凡さに耐えがたく圧倒されることはない。その機械的な平凡さの中に、神の足跡を発見するからである。そのような者は、神の預言者となるであろう。非凡を発見せよ。

 

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