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「イザヤ書と救い主イエス」

ユダヤ北朝の滅亡に亡国の再興を祈った預言者イザヤは、バビロン捕囚の中から新時代の霊性を予測した。彼の務めは、紀元前760年に始まり、60年以上も続き、四代の王に仕え、歴史は、彼が鋸で二つに切断されるという残酷な方法で殉教したと伝えている(ヘブル11・37)。紀元前722年、アッシリア王センナケリブによってサマリヤの北朝は壊滅。それより136年、ユダヤ南朝、即ちダビデの王統はバビロン王ネブカドネツァルによりエルサレムの地を去る事となり、不滅の都エルサレムは陥落。時に紀元前586年。ユダ王ゼデキヤは城壁を抜け出て逃走したが、捕縛、両眼をつぶされ、青銅の足枷をはめられバビロンに連行された。多くの民も捕囚となりバビロンに連れ去られた。預言者イザヤの心には、神以外にこの壊滅した民族を救うものはないと自覚せざるを得なかった。そればかりでない、イザヤは「イエスの栄光を見た」ので、主を信じない者は癒されないと断言した言葉をイエスもまた引用し、主イエスに従った使徒パウロもこのイザヤ書6章の言葉を使徒言行録28章で引用した(ヨハネ12・40~41、使徒28・26~27節)。おそらくイエスはこのイザヤの記した書を洗礼者ヨハネからさし示され、それを自分のものとするほど暗誦したであろう。そうでなければ『山上の垂訓』は生まれなかった。被造物のために悩む神は、罪人を救おうとする意志をもってイエスの自覚となし歴史の上に躍り出、受難者としてカルバリの山の上で十字架を私たちに凝視させる事となった。イスラエル北朝の滅亡、ユダヤ南朝の崩壊、そしてアレキサンダー大王によるユダヤ征服、イエスが受難者として自覚した頃のユダヤはローマ帝国に占領されていた。だがイエスにとって、血をもって血を洗う政治的革命の道より大いなる道が備えられていた。それは人類の罪悪を取り除く解放の道。その道のみが荒野にサフランの花を咲かせ、小羊と獅子とを同じ洞窟に共生せしめる道であった(イザヤ35・1、65・25)。 1945年8月15日、日本は滅亡した。その日本がいかに再興するのか、いまだ沖縄、北方領土問題は解決していない。朝鮮半島が分断しているのも日本の責任があるがいまだ解決していない。この再興の道はイザヤが自覚した受難者の道、十字架への道に他ならない。ただ神の愛以外にこの失楽園からの回復の道はない。イザヤ書は絶望の淵に呻吟する者にイエスの心を呼び覚ます。イエスはイザヤ書に生き、遂に救い主キリストになった。イザヤ書は荒野に降る雨、悲しみの日の慰め、闇の中に入る者にとっての光明である。それは人を救う福音の力である。

 

 

1 イエスの神観

イエスは神を「天の父」と呼んでいるが、これはイザヤ63章16節と64章7節に出ておりイザヤ書にその起源を持つ。イエスは本来、神御自身であったが、イエスはイザヤの思想によって感化された。有限なる人となられた神が、無限の神に対して「父」と呼び、放蕩息子をも赦す温かい神のイメージを示した。よって人性をとられたイエスは祈る時も神と呼ばず、「父」と呼び、父と自分が一つと考えた。このことが、イエスが十字架にかけられた理由の一つであった(ヨハネ10・30)。こうして復活を経過して昇天し、復活の命を与える聖霊として私たちの内なる霊の中に宿り導く神が存在するのであるが、これを三位一体の神と呼ぶがこの考えもイザヤに起因し、継承していた。

 

 

2 平和な被造世界の創出

イエスは野の百合を見よ、空の鳥を見よ、と大自然が神の顕現の一つであると強調し、イザヤはこの世の環境、災禍も戦争も津波も地震も神の摂理、神の必然と見た。イエスの『山上の垂訓』の「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5・9)と言うがそれは、イザヤ書11章の気持ちと同じで、狼と羊、豹と子山羊、子牛と若獅子、牛と熊、獅子と牛が共に生きる姿だ。それはイエスが「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」と言った背景であるイザヤ58章の真の断食の実践によって実現する。真の断食とは、虐げられた人を解放し、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しき人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまぬこと。そして安息日には歩き回るのをやめ、主の聖日を尊び、したいことをせず慎むこと。その時争いは無くなり、平和がやって来ると言うのである。病も癒され、力が与えられる、と言う。このような断食をする人が平和を造り出す人とイザヤは呼ぶ。自分の周りの環境がいかに変化しようともそれを神の必然として受け止め喜びの日として、感謝して歩むなら平安がやって来る。これがイエスの思想の中に継承されている。イザヤは平和の幻を確かに見ていた。いつの日か主イエスは国々の争いを裁き、多くの民を戒め平和をもたらす。イザヤ書2章4節はこう綴っている、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鍬とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と。

 

 

適用

創今日、一切の裁きの権利を、父なる神は御子イエス・キリストに委ねられている(ヨハネ5章22節、27節)。したがって私たちは互いに裁き合ってはならず、全てを御子にゆだね、御子の判断に従うことである。それゆえに聖書は「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(ヨハネ3・18)と告げている。今年一年、主の懲らしめを受け、災難に遭わないように、獄に捕らわれないように、たとえ周囲の人の身代わりであっても懲らしめを受けないように、周囲の人々に主イエスを救い主として信じるように宣べ伝える一年でありたい。「福音を宣べ伝えなければ、わたしは災いである」(Ⅰコリント9・16)とのパウロの言葉を受け止め今年一年を展望していきたいものである。

 

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