「命を与える霊の出現」
主イエスがこの地上にやって来た時、ヨハネは彼の福音書の冒頭で、「言(イエス)の中に命があった。命は人間を照らす光であった」と宣言した(1:4)。このことから私たちはイエスの中に命があったことを見る。事実イエスは「わたしは復活であり、命である」(11:25)と言う。また「命を与えるのは霊である。・・・わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われた(6:63)。明らかに命と霊と関係がある。パウロは、「命をもたらす霊」(ロマ8:2)。と言い、「霊の思いは命と平和である」(ロマ8:6)と言う。またヨハネは「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(Ⅰヨハネ5:12)とさえ言っている。
1 命の特徴
第一に、生きていると言う感覚を持つことである。生きているとは生かされていることである。時々、私たちの内側が妙にしぼんで、死んでいる時がある。それは聖霊の中に生きていない証拠である。そこから祈っても何も出てこない。魂の中に生き、肉の中に生きていても、霊の中に生きていない場合がある。そんな時は祈りたくても祈れないし、語りたくても語れない。主イエスの霊に触れず、その聖霊の中にいないと、命が欠如するのである。これでは落ち込んでしまう。命を与える復活の主の霊を持たなければ、生きている感覚がなくなる。この霊は、私たちの思考や感情や肉体の中におるのでなく、私たちの深い霊の中におられるのである。 第二に、新鮮さである。それは活発で生きていることである。聖霊に生きている人は日々新しくされて、決して古くはならない。新鮮さを人に与える何かを持つようになるのである。 第三に、明るさである。聖霊にある人は明るい。人が明るさに欠けているのは、内側に命をもっていないからではなく、聖霊の中に生きていないからである。聖霊に触れ、命を持つと、人を照らす光が、その人を明るくする。 第四に、強さである。命は強くて、恐れない。たくましい命は、日光に照らされても、雨に打たれても、命は滅びない。むしろ命が成長するのを助ける。死は弱さの表現である。
2 命と平安
こ れらの4つの点が合わさって平安と満足という結果になる。しかしクリスチャンの中に不安とむなしさと不快感で満たされている人もいる。彼らは聖霊に触れず、命を受けておらず、安息と平安や喜びがないのである。霊の触れ、霊の思いで満たされると命に触れ、命が来ると、平安にみたされるのだとパウロは言う(ロマ8:6)。平安には満足が含まれているのは言うまでもない。立っていても座っていても平安を持ち、喜びに満たされ、主を賛美し、他の人の賛美にもアーメンと言うようになり、真のハレルヤを経験する。これこそクリスマスの心ではないだろうか。
3.適用
い イエス・キリストは寝る部屋の無い宿で、飼葉桶に横たわり、産まれた。しかし聖霊によって包まれ霊的な命と霊的な平安で満ちていた。その聖霊の充満生活を私たちもまた経験することが望まれる。ハルマゲドンの戦いが起ろうとも、それに耐えうる、そして勝利する神の知恵と力で満たされるクリスマスでありたいものである。