「 神の知恵の啓示」
イエスの弟子パウロがコリントに伝道したが、そこでの伝道は非常に困難で、なかなか思ったほどの成果を上げなかった。エフェソに戻るや、教会はすぐに分裂した。そこで彼はコリントの教会宛てに書いたのがこの手紙で、その教会は、分裂だけでなく、罪、混乱、賜物の乱用、異端的な教えがあった。いかにこの事態を解決すべきか、パウロはエフェソに滞在していた3年間の終り頃、執筆したのが『Ⅰコリントの信徒への手紙』なのである。 。
1 十字架
教会の中の諸問題を解決するのは十字架であって、それが私たちを終わらせるものであるからである。キリストは、享受なのだが、十字架は終結である。人の生活は問題ともつれで満ちているが、そのもつれを解決し、すべての問題を断ち切るナイフこそ十字架であって、それは「神の知恵」「神の力」であるとパウロは考える(1:18)。 ところで聖書を読むことで最も重要な事は、著者の霊に触れることである。何かを書く著者は特別な負担があるはずな ので、著者の霊の中に入りこむ必要がある。 そこでこの手紙の最初の2章は理解するのにとても難しい。だが著者の霊に触れるならこれらの章の主要点が、そらされた哲学的な信者たちをキリストに連れ戻そうと努力していることに気づく。そこで彼は十字架につけられたキリストを強調している。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた」(2:2)と宣言しているからである。そして人の問題を解決する神の方法は話し合いでなく、終わらせる事であって、それに最もよい方法は十字架につけられたキリストを持つ事だからである。 十字架を通してキリストは、人の拒絶に遭い、進んで殺されたのであった。このキリストが神の力であることを、この方が人を救うのであることを告げたのである。パウロの霊は、戦っている哲学的な信徒たちを、打ち負かされたキリスト、十字架につけられたキリストに連れ戻すことであった。パウロが福音を宣べ伝えた理由は、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」であったと告げている(1:17)。つまりギリシャ文化、知恵、哲学を忘れて、抵抗せず、戦わず、黙って十字架につけられたキリストに連れ戻そうとしたのであった。なぜなら「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1:18)だからである。サタンは、ユダヤ教の信徒やギリシャの哲学者たちを扇動して、この世の知恵である彼らの「主義」を伝え、キリストの十字架をむなしくしようとしたので、パウロはこの事にとても警戒していた。コリントの信徒の分裂もまたユダヤの宗教やギリシャの哲学の背景から来たのだった。 しかも頽廃期に面していたギリシャ道徳に対して、パウロはキリストの十字架を中心とする新道徳を教えた。ギリシャの道徳は個人的であったのに対して、イエスの道徳は全体意識を中心とした愛であることを教えた。それが13章の愛の道徳によって、それまであったギリシャ道徳のすべてを包含せしめ体系的に組み立てていった。それはイエスの『山上の垂訓』(マタイ5,6,7章)に見られる思想の展開であった。 このように十字架を通して福音を語ると言う方法がパウロの方法なのであった。
2 霊と力の証明による宣教
パウロの宣教は説得力ある言葉でなく、「霊と力の証明」によった(2:4)。説得力ある言葉は、人の思いからでるが、霊の証明は、私たちの霊から出て来る。だからそれには力があった。私も、教養ある人々をキリスト教に改宗させるために多くの知識をもって説得しようと試みたことがあった。何人かは受け入れたが、その努力はむなしかった。彼らはキリストなしに受け入れたからである。しかしながら、これによって、彼らの水準に合わせて言語や知識を選択するのは誤りであることに気づいた。私たちはキリストを宣べ伝えるのに水準を維持する必要がある。この水準はキリスト御自身であり、キリストの語られた言葉そのものなのだ。それがキリストを受け入れることなのである。そうすれば真のキリスト者となるとパウロも気づいた。神に祈り求め、不可能と言えども可能となることを求め祈るならば、神のみ旨と合致した時、主の霊と力が流れ出し、大いなることがもたらされる。パウロはそれを告げたのであった。 そしてこう告げた「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(2:7)。「神の知恵」とはキリストのことである(1:24)。彼は「隠された計画(奥義)」(コロ1:26)でありあらかじめ計画され、運命づけられたのであった。その「栄光」であるキリストに私たちは召し出され(1ペト5:10)、この栄光の中にもたらされる(ヘブ2:10)。これは神の救いの目標なのである。神は永遠の中で私たちの運命を定められ、決められた。これは神の知恵が私たちの栄光となるようにあらかじめ定められたのである。この神の知恵を「神の霊によって明らかにした」(2:10)と言う。それには私たちの霊が神と親密な交わりを持ち、神と一つとなる以外にない。神の霊が私たちの霊の中で示し、認識させるからである。パウロは「主に結びつく者は主と一つの霊となるのです」(6:17)と言う。主イエスは、十字架を通して旧創造を終わらせ、命を解き放ち、彼を信じる者すべてに分け与え、今や、「最後のアダムが命を与える霊」となり(15:45)、私たちの霊に内住し、私たちが復活の主と結合されて一つの霊と成っていることは深遠な事柄である。
3.適用
憐 イエスの言葉は、霊の言葉であって(ヨハネ6:63)、命の言葉、命そのものなのである。私たちは霊の水準を引き下げる誘惑に対抗しなければならない。むしろこのような人を引き上げることを求めるべきなのである。もし私たちの魂が、キリストの思いを抱いているなら(2:16)、復活の命の主なるキリストは、私たちの霊から思いに浸透して、私たちの思いを主の思いと一つになり、実行するようになり、信徒同志が「神のために力を合わせて働く者」となり、キリストの体を建て上げ、「神の神殿」となることである(3:9、3:17)。これが、主が命を与える霊と成られたビジョンであり、パウロの完成すべき務めの中心的課題であった。 。