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「闇路に照らす光」

ヨハネが言う「光」の心持は、「お光さん」と言う考えと似ている。ヨハネはこれを命と関連付けて考えている。彼は「神は光である」と言う(Ⅰヨハネ1章5節)。神を体験すると明るい光が自分の中に入ったような心持ちになる。暗い所を歩いていると真っ直ぐに歩いていてもいつの間にか曲がってしまって真っ直ぐに歩けない。気が付くととんだ所に行ってします。人生の闇時をさ迷う人々も同じであって堂々巡りの生活をしてしまう。ところが光がぱあっと射すと、今まで見えなかった向こうが見えて来て、心の奥まで澄んでくる。そして明るい気持ちに味わわれ、魂の傷もいやされる。

 

 

 

1 心の傷

 傷持ちの人は多い。心の傷に膿を持って闇路のさすらいが始まる。そして「命」がわからなくなる。しかし光が射すならば、命の何たるかが判るようになる。それにはまず「罪」の何たるかが判る必要がある。罪の根源は、神のない事であって、神は光なので、光のない暗闇の生活である。したがって光が来るならば、そこに罪の何かが判る。イエスは「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。あなたがたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6章22~23節)と言っているが、魂が暗闇にあると神が判らなくなる。それゆえ罪から清められる必要がある。光は力であり、また消毒作用を持ち、光の中を歩むというのは神と一緒に住むということである。神の光を受けるなら、更にその光を放射して、そのために暗闇は打ち消されて光で照らされた世界が現れる。これが神と共にある生活である。ヨハネの信仰の中心はこの神と一緒にいるという事で、それは我生きるのでなく、命としての神が我を貫いて生きることである。神の光が乗り移って、自らもまた光となる。

 

 

2 罪よりの救い

 私たちはただ罪に勝つだけでなく、罪の組織化されたものに対しても、打ち勝たねばならない。それをヨハネは「世」と呼んでいる。よって「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません」(Ⅰヨハネ2章15節)。この世は、世間並みの道であるが罪の連絡網が張り巡らされており力を持っている。よってこの悪に打ち勝つ力が組織以上、罪以上の力であるのは神の力が乗り移れば十分打破できる。だから神の力に乗り移れば罪と悪の組織に打ち勝つことができる。ところがこの善の進撃に対して、反対する精神がある。それを「反キリスト」と呼ぶ。「子どもたちよ、終わりの日が来ています。反キリストが来ると、あなたがたはかねてより聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています」(同2章18節)。人の心には悪を楽しむ心理がある。人を助け、善い日本を作るために生きるよりも酒を飲み、不道徳な事をする方が楽しいと言う人は多い。そこにはサタンが待ち伏せしている。善をしようとする意志が湧き起こると、それに対抗する意志を指してサタンと呼ぶ。また反キリストと呼ぶのである。命の源であるイエスを抹殺しようとするのは反キリストなのである(同2章22節)。しかし御子に内にとどまるなら、これらの惑わしから救われ、罪を犯さないですむ(同3章6節)。 3 神の子として生きる かくしてヨハネは「互いに愛し合い」(同3章11節)、兄弟を憎む者は、人殺しであって、その人の内に永遠の命がとどまっていないという。そして「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(同3章17節)と金持ちに対して忠告している。富を抱きながら、人の窮乏に備えない人にどうして神の愛がわかろうか、と教える。 そして「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(同4章8節)と言います。いかに聖書を繰り返し読んでも、もし愛の実行がなければ神はわからない。しかしもし少しでも愛を持ち、人を大切にするなら、神は我々と共に居る。愛するところに天国が始まるのであり、救いの展開がある。そして「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現している」のである、「これによって、わたしたちが神の内いることがわかる」のである(同2章5節)。 これには、神が私たちを愛してくださった事を認識しなければ、人を愛することはできない。それはイエスの贖罪愛、十字架愛を知ることである。これによって神の掟である兄弟を愛することが可能となる。これが神を愛することとなる(同4章21節)。

 

 

適用

創 愛を注ぐことがいかに大事かがわかるであろうがそれには、もっと祈る者でなければならない。それには愛すべき対象に無頓着であってはならない。愛を注いでいるとその性質がだんだん理解し、好きになって来る。祈りは、大きくなりたい、豊かになりたいと言った具合のように成長への欲求なのである。勿論、感謝の祈りもあるが、そこに成長の要求がある。米国のライト兄弟は牧師の息子であったが空を飛びたいと願い、自転車に翼をつけて坂道を走ったところわずかに飛び上がることができた・このことが飛行機の発明の糸口となった。繰り返し、繰り返し実験して、はじめて成功する。偉くなろう、善い人になろう、世の中をまっとうに歩んで行こうとする要求が、すなわち「祈り」なのである。「何事でも神の御心に適う事を私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」(同5章14節)、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人の為に神に願いなさい。そうすれば神はその人に命をお与えになります」(同5章16節)とある。イエスは「求めなさ、そうすれば、与えられる」(マタイ7章7節)と言われたが私たちは愛の完成の為にもっと祈る者とならなければならない。そして愛を持つ者となるのである。これが闇路に照らす光となる事でもある。

 

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