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「神の王国に入る条件・再生」

  世界中で最も神秘的な書物は何かと問われるなら、それは『ヨハネ福音書』であると答えよう。その所の書かれた目的は、明らかで同書20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とある。 これは永遠の命以外に教会や社会の破れを繕う方法はないと理解したヨハネが、その命をもってあるゆるすき間をふさぐ務めを記した書である。

 

 

1 非受造の命

 

   そこで神の言葉である救い主イエスの中に永遠の命があることを啓示します(同書1章4節)。イエスはこの命を人に与えたいと願い(5章21節)、イエスは命として人の中に生きさえすることを啓示しました(14章19節)。 この命であった神がこの地上に来る前に、万物を創造されたのであったが、それは彼を命として受け入れる容器、受ける者が必要であったためである。そのため天地人を造り、人の霊をその中に形づくられたのであった(ゼカ12章1節)。 しかし創造において、神は人を、命を入れる器に創造されたのであったが、永遠の命は注がれておらず、持ったのは一時的な命にすぎなかった。人は永遠の、非受造の命を必要としたのであった。神の子となるには主イエスによる命を受け入れる以外になかった。この世にあるものはすべて空であり(コヘレト1章2節)、すべてちりあくたにすぎない(フィリピ3章8節)のであって、キリストの中にこそ真の命、光、慰め、恵み、愛がある。 そこで洗礼者ヨハネは、宗教運動の中には社会や政治を復興させる力などないと考えた。必要なのは再生以外にない、と見た。著者ヨハネもそれを理解して、9の事柄を例証して一時的命を永遠の命に変える原則、言葉を換えれば、死を命に変える原則を啓示した。原則は、2章のカナの婚宴、宮清めによって提示され、それに続いて9つの事柄を例証した。3章のニコデモ、4章のサマリヤの女、病気で死にかけている若者、5章の38年間病んでいた人、6章の食べ物を求める飢えた群衆、7章の渇いた人々、8章の罪深い女、9章の生まれつきの盲人、11章の死んで4日間葬られていたラザロについてである。 洗礼者ヨハネは、当時の宗教者たちが偉大な指導者を待望し、彼をメシヤ(キリスト)なのか、エリヤなのか、預言者なのかと尋ねさせた時、自分は「荒野の叫び声」であると答えた。それは無である、何ものでもない、メシヤでも、エリヤでも、預言者でもないと表明した。そして自分の後からこられる方、自分がその人の履物のひもを解く資格もない方が来られると言い、その翌日、その方イエスを人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」として紹介した(1章29節)。彼は「ユダ族の獅子」とは言わなかった。偉大な宗教者を期待していた宗教家たちにとって失望であった。イエスは真に罪を贖う小羊として来られた。イエスが来られたのは運動のためでなく、人類の罪とそれに付随する過ちを解決するために来られたのであった。十字架の贖罪こそ神の愛の表現であったが、それは私たちもまたイエスによって教えられた『山上の垂訓』(マタイ5~7章)に実行によって現実化するのである。それは永遠の命を得る道であり、霊の網の破れを繕う方法なのである。そのためにヨハネ福音書の著者は、9つの死を命に変える原則を例証したのであった。

 

2 ニコデモの事例

 

     最初の事例、ニコデモの事例は死に満ちていた人ではなかったと、あなたは思うだろうか。実に彼は死に満ちていたので、イエスは彼に、再び生まれて神御自身である永遠の命を持つ必要があると告げられたのであった。神の目に彼は死んでいたのであった。よって死を命に変えられる必要があった。彼自身は罪深いとも知らず、死んでいるともなおさら知らなかったが、神の目には死んでいたのである。彼は再び生まれて、神御自身である永遠の命を持つ必要があった。カナの婚宴で人の楽しみのぶどう酒が尽きた時、人はむなしさと死を感じるが、その時主はその死を命に変え、永遠の命の神聖なぶどう酒で満たされた。 ニコデモは確かに最上級の人であった。教育において最高峰を極めた教師であり、尊敬と権威を持った人であり、年を老い多くの経験があった。道徳的な人であり、善人であった。しかも真に神を求めるへりくだりの人であった。60、70歳位であったのに30歳余りのイエスに会いに来る人であった。 にもかかわらずイエスは彼に再生が必要であると啓示したのである。これは道徳的な人、決して堕落しない人であっても祭司絵が必要であることを示している。たとえアダムが堕落しなくとも再生を必要としたので、神は彼を命の木の前に置かれた。もしアダムが命の木の実を選択し、与っていたなら再生されたはずだった。アダム同様私たちも人の命、肉の命、天然の親からの命を持っているが、神聖な永遠の命を持たない限り再生が必要なのである。神の目的は人が神の命を入れる器であることで、神の命を内側に宿すことが目的であり、再生の真の意義なのである。多くのクリスチャンは、だだ堕落して罪があるゆえに再生が必要なのだと考えているが、この肉の命をいかに改良しても、改善しても解決にはならないのである。たとえエデンの園でアダムが決して堕落しなかったとしても、彼には再生が必要であり、別の命、神の命を持つ必要があったのである。いづれにしても、神はエデンの園に命の木を置き、さらにそれを選択しない場合に備えて、贖いの道を備えたのであった。それが主の贖罪としての十字架であった。これは失敗し、道を踏み外した者を再び神の子として迎えるための救済策であった。ここに神の愛があったのである。したがって主イエスの十字架の業は、神の愛の必然の結果であったと言えるのである。永遠の初めより、神は人をご自身の子として迎えるために愛をもって導かれたのである。

 

 

適用

 

 ニコデモは当時の宗教者たちの一人としてイエスを神から来られた教師と考え、良い教えで自分を改善し、良き社会を繕うとしたのであったが、イエスは社会を繕うには神聖な命で満たされるために再生する必要を啓示したのであった。彼は知識の木に属する教えを追い求めていたが、イエスは命に木に則する命の必要に転向させた。私たちの必要とするのも自分を調整し矯正したりする宗教や教えではなく別の命、神の命である必要なのである。水と霊から生まれなければ神の王国に入る事はできないのである。聖霊に充満されるよう祈り求めたい。

 

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