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「愛弟子テモテが語るべき事」

  8  だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。9  同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。10  むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」 マケドニアにいた頃のパウロは逆境に立っていた。アジアの人達が反逆し、その中に最初パウロを非常に愛したフィゲロとヘルモゲネス等も加わっていた(Ⅱテモ1章15節)。ヒメナイ、フィレト、デマス、アレクサンドロ、ヤンネ、ヤンブレ等の人々もパウロを離れてサタンにつき、彼を苦しめた(Ⅰテモテ1章20節、Ⅱテモテ2章17節、同3章8節、同4章14節)。今まで努力して打ち立てた伝道の地盤が、彼の弟子たちによって打ち砕かれ、すべてが壊されて、雪崩れのように崩れかかったのでさすがのパウロも失望せざるを得なかった。

 

 

1 失望の底に沈んで

 

   パウロは、「私は宇宙全体、即ち天使にも人間の前に見世物となったようなものだ。いい恥をかかせられ、飢え、渇き、着る物もなく、打たれたり迫害せられたりして各地をさ迷い歩く。骨折って仕事をして稼いでは罵られ、耐え忍びながら人の祝福を祈り、ののしられても優しい言葉を返している。自分は世の中の屑のようなものだ」(Ⅰコリ4章9~13節と言っているが、

 かくのごとく苦しんで築き上げたアジア伝道が、一朝にしてひっくり返ったのであるから耐えきれぬ失望に沈んだのも当然であった。

 日本の伝道も150年を超え少しは盛んになったが、どうかすると全部がひっくり返ってしまうこともある。こうしたパウロの悲境に奮い立たせたのが愛弟子テモテであり、テトスであった。

 

 

2 最愛の弟子テモテ

 

   モテの父はギリシャ人で、母はユダヤ人であった。テモテはパウロの第一次宣教旅行の結果、信仰に入った。母の名はエウニケ(ユニケ) 祖母の名はロイス、共に熱心な信仰の持主だった(使徒16章1節、Ⅱテモテ1章5節)。幼き頃より旧約聖書について詳しく教えられ、神に祈ることを知っていたが純粋なユダヤ人でなかったので割礼を受けずにいたが、パウロはユダヤ人の手前、彼に割礼を授け(使徒16章3節)、パウロの勧告に従って伝道に専念した。ガラテヤ、マケドニア、エフェソ、コリント、テサロニケと伝道して回った。

パウロは彼にいつも重大な責任を負わせたが、常に心配していた。祈りかつ色々と気遣っていた。困難な教会にて若いというだけで軽んじられ、勇気を失うことがないように神のために進むべきことを教えている(Ⅰテモテ4章9節)。またテモテが健康を害したので、病のために少しのぶどう酒を用いて回復を早めなさいと細かい忠告をしている(Ⅰテモテ5章23節)。 パウロはテモテを信頼し切っていたために、自分の長所と短所をあけすけに語っている。「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし・・・憐れみを受けました。主の恵みを・・・あふれるほど与えられました。・・・わたしは罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになりました」と言っている(Ⅰテモテ1章13~16節)。

  普通の人にはちょっと言えないような言葉である。パウロはテモテに大胆に自分の短所を語っている。パウロは決して罪人のかしらではなかった。愛国者であり、ファリサイ人の中のファリサイ人だった。ユダヤ人と言う観点から見れば、その時の彼のしていたことはけっして罪があるとは考えられない。しかしキリストの考え方に代わってから自分は罪人のかしらだと思うようになった。神を離れて、人生の根本目的から離れて、ぶらぶらとさ迷うた生活をすることは、闇から闇へ歩いて行くことである。そしてキリストを迫害していたことは赦すことのできぬ罪人の仕業と理解したのである。思い出しても身震いすると彼は告白している。

 

 適用 エフェソに遣わされたテモテ

 

  そこでは空論が喜ばれ(Ⅰテモテ1章4節、4章6~7節、5章13節、6章5節「俗悪で愚にもつかない作り話」「俗悪な無駄話」「無意味な詮索」「おしゃべりで詮索好き」「絶え間ない言い争い」)、異端が起った。そして遂にはイエスの復活をも否定する人たちが現れたためにテモテは苦しみ、パウロに一日も早く来てくれと求めたので、パウロはそのために『テモテへの手紙一』を書き送った。 そこでパウロは教会に対する訓諭(異なる教え、礼拝について、奉仕者の品性、教会の姉妹たち、長老たち、執事たち、奴隷の信徒に対して)を語っている。 第1は人に命を供給する言葉を語る事。その要点は教理を語る事でなく、相手の命が成長するような言葉を語ることを勧めている。人に命を与えない言葉や時間や力を注ぐよりも奉仕する霊によって占有されることである。優秀な看護師で、話し好きな人はいない。エフェソの教会の人々が優秀な看護師となるように願っている。特に、主がすべての姉妹たちを訓練して、教会の看護師としてくださるように。 第2は祈りによって奉仕する事。とりなしの祈りによる奉仕が大事である。立ち上がって語らなくてもとりなしの祈りの専念することが求められている。何を語るべきでないかを学び、簡単に雑談をせず、とりなしの祈りに時間を割くべきなのである。この祈援は教会のためにしなければならないのである。奉仕する最高の道は祈りである。祈りの集会は一種の奉仕なのである。 第3は霊的な母となる事。パウロはフィベという姉妹を紹介しているが、彼女はケンクレアイ教会の女執事であって、パウロの「援助者」であった(ロマ16章1~2節)。しかしそれだけではまだ十分ではない。教会の中では母となる必要があるのである。霊的な子どもを持っていないと、姉妹たちは命の転換を経験する。子どもを持つ事によって成長するだけでなく、過ちを犯すことから守られる。保護と支えを持つからである。話し好きな兄弟姉妹がいるなら、彼らに12人の子どもを与えることだ。子どもが多ければ多いほど、雑談をしている暇もなくなり、実際的になる。9人の子どもをお風呂に入れても、まだ3人が残っている。余計な事を話している時間、精力、力、心情も無くなるからである。そして、神の家族を守り導くのである。それには節制し、分別をもって行動し、礼儀正しく、酒におぼれず、金銭に執着せず、品位を保っていなければならないのである。こうして姉妹たちは霊の子どもを産むことによって救われるのである(Ⅰテモテ2章15節)。 兄弟たちは、怒らず争わず、清い手を上げて祈り、姉妹たちはつつましい身なりをし、慎みと貞淑を持って身を飾り、良い奉仕の業で身を飾るのが幸いなのである。主イエスの「山上の垂訓」の教え(マタイ5~7章)に従い実践すると、内側に臨在する聖霊が動き出し、平安を備え、必要をもたらし、命で充満させて輝かせてくれるのである。これは神の神秘でもある。

 

 

 

 

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