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「なぜ十字架を重んじるのか」

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」

パウロの発見した事柄は、いかなるものだったのか。万有引力の法則では、物は上から下に落ちる。落したものを引き上げるのは容易でない。貧しくなって人生のどん底にまで落ちた人を引き上げるのは困難であるが、それが出来たなら奇跡と言ってもいい。イエスは12年間も長血を患っていた女をイエスは治されたし、目の見えず困っていた人、その他様々な精神的疾患で悩んでいた人を治されたが、それをもとに引き上げ治すと言うのは奇跡であった。このように神の力が人に及ぶことを奇跡と言う。これは人格を通じて神の力が働くのであるが、パウロはこの人間再生の力がイエスの十字架を通して働くことを発見したのであった


1 パウロの構築した十字架思想

使徒言行録第9章を見ると、使徒パウロはキリスト教が大嫌いだったようだ。なぜそうだったかと言うとパウロは、神は必要だがキリスト(救い主)は要らぬと考えていたからである。天地万物を造られた神と、はりつけに掛かったキリストは何の関係もないと考えていた。ところが彼は十字架のイエスを通して神の再生の力が人間に注がれることを発見したのである。どんなに神から遠ざかっている人でも、もう一度引き返す力があるということ、神によってどんな罪深い人でも罪悪から離れて甦ることができる、つまり十字架を経過して復活したイエスによって神の命を与える霊が人間にも注がれ発見したのであった。だからこれが判った時にパウロは奮然と立ち上がった。別人のようになって「イエスは神の子である」と言い出したものだから人々はみな驚いた。彼は、それが神の恩恵だと言うことを見つけたのであった。いろんな方法でパウロはそれを説明しようと工夫したが、彼は単なる歴史的な十字架を説いてはいない。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(Ⅱコリント5章16節)と言った。 そもそもパウロはイエスについてそう知っていたとは思えない。イエスの語った言葉にしても知っていたのは三つか四つくらいで、知っていたのは十字架だけであって、しかもそれはイエスの思想、つまり何か目的をもってイエスは十字架に掛かって死んだと言うことの発見であった。つまりイエス自身、なぜあんな十字架と言う悲劇に直面しなければならなかったかと言うことの意味である。それが判ったので、十字架を選択したのだが、それが神の予定された道と納得した。それは旧約聖書の中を探らなければ容易には判らない。十字架の出来事への判断は常識では判断できるものではない。それをパウロも言っている、「十字架の言葉は、滅んでいく者にといっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1章18節)。十字架の言葉つまり、イエスの十字架の出来事は旧約聖書の心をもってイエスを見る時に判るのだと言える。 行き詰まりの人間を神は救ってくれるのだが、行き詰まりを打開するのは神の救いを信じなければならない。とはいっても償うべきことは償わなければならないのである。今までは小羊や牛を捧げて足りたのであったが、それでは足らない場合もある。その時人間の捧げ物が必要となる。そして肉体を滅ぼして霊の体で甦る。そうすれば人間の罪は一度消える。かくしてパウロは肉体を滅ぼすただ一つの道は、十字架の行為であると妙な思想を構築したのである。これがパウロの「ローマの信徒への手紙」第6章の思想である。つまり、肉体を滅ぼして霊の体に甦るために、その人を磔刑につけて殺すということを真面目に考えたのであった。一度滅ぼされたイスラエルが70年後バビロンから解放され、こう一度甦った、再生したように神の恩寵がある、この神の人類救済の予定を察知して勇敢に十字架に向かったのがイエスであった、このイエスを通して神の再生の力が現れ出る原理が構築されたと説いたのがパウロであった。これは「ローマの信徒への手紙」第7章、8章に詳しく出ている。


2 十字架に現われた神の愛

神の愛は十字架において現われる。ローマ8章35節から39節に書いてある如く、パウロはキリストの愛から離れられないと言っている。ローマ第8章の前段で、罪と死の法則から解き放たれて、命と霊の法則に生きるようになったことを語ったパウロは、「死も、命も、天使も、支配するもの」も破り得ない過去、現在、未来を通じての絶対的な法則がある、それは再生する力(聖霊の力)をイエスの十字架と復活の出来事を通して私たちに注ぎ、造り変えて下るのだと確信したのである。こうして今まで拒んでいた神を人に伝えるために志を立てた。この再生の力を求めている人は無数にいるのだから、十字架愛を伝えよう、と言って立ち上がったのである。「なぜならキリストの愛が私たちを駆り立てているからです。すなわち、一人の人がすべての人のために死んで下さった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んで下さった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのでなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Ⅱコリント5章14~15節)と、言ってパウロは霊の体の甦りと再生の宗教を伝えて回ったのであった。悪い者でも救われることを伝えて回ったのである


 適用 

十字架をイエスは意識的に考えたのだが、それに気づいたのがパウロであった。パウロはイエスの気持ちを解釈したのである。人間的に言えば、十字架に掛かることは御免被りたいところだがこのような「損失」を誰でも受ける宿命にある。それは罪と死の法則だからである、とパウロは言った。十字架はそれを覆して、引き上げ、再生する力なのであるから、主の言葉に従って歩むなら必ず奇跡的な道が開かれるのである。


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