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「イエスの教え」

「14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」

ユダヤ民族に生まれたのがイエスであった。彼は今より2020年の昔、イスラエルの南部ベツレヘムで生まれ、その後北部のガリラヤのナザレの町で大工として働き、30歳の時に及んだ。その頃、北から南に流れるヨルダン川に近いユダヤの荒野で洗礼者ヨハネが国民に悔い改めを迫る精神運動を興していたがこの運動に共鳴して彼から洗礼を受けた。イエスは彼の後を継いで、神の福音を公に宣べ始めた。イエスの生涯はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に記されている。3年間の福音宣教では当時の有力な宗教勢力であるファリサイ派、サドカイ派や律法学者、更に有力な政治勢力であるヘロデ党派などから圧迫され、当初はあっちこっちに逃げ回っていたがやがて覚悟が出来て、自分の運命を賭けて、自分が神の救いの為に来たことを明言しだした。かくしてエルサレムの城外、カルヴァリの丘で磔刑にかけられた。ではそのイエスの教えは何であったのか。

1 時は満ちた

物事をするには潮時がある。適当な時がある。悔い改めをするにも潮時がある。この世に中に没入するとなかなか悔い改めが難しくなる。若い日に主の名を覚えなければ価値ある生涯は始められない。時を逸してはならない。キリストによって生きるなら魂に美しい彫刻が刻まれる。イエスは神の潮時に敏感であれと教えた。


2 神の国

第二にイエスは神の国について教えた。独りぼっちの人生でなく、人が寄り集まって生きる「国」を教えた。病人に、障害者、貧しき者、孤独な者に対して救いの手を伸べ、神の命を享受し合い神の国の建設である。イエスは自らその国の王と考えた。そして人に仕えた。神の国では一生懸命に働き、人の下座奉仕をするものが王の位に坐ることが出来るのだと教えた(マルコ10章42~45節)。神の王国の憲法とは、人に仕える憲法であって威張る者は入る事のできないところが神の国である。神の国は怠け者の入る所でなく、休みもなく働き続ける人が入る所である。働くことを楽しむ人の王国である。

3 悔い改め

第三のイエスの教えの要点は、悔い改めである。それは標準・基準を変えるという事である。金持ちのなる事が成功の人生と思っていた人が病気するやもはやお金ではない。早く良くなって山歩きでもしたい、おいしい料理が食べたいと望むようになる。お金では買えない世界があることに気づくや価値基準が変わる、これが悔い改めである。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13章5節)とイエスは悔い改めを説いた。そこでイエスの教えを「悔い改めの福音」と言うのもそのためである。 では「福音」とは何であるか。福音とは喜びの知らせ、幸福の知らせの事であるが、どんな貧乏人でもどんな罪を犯した人でも救われると言うことを言う。ユダヤの古い社会の掟には、7年目ごとに解放の年と言うがあって借りた物もその年になれば返さなくてもよくなるし、囚人も奴隷も土地も釈放される。7の7倍、49年目にはヨベルの年と言って、なにもかも元通りに返されるという規定があった。罪も借金も困った人も救われると言う、

それをイエスは福音と呼んだ。その福音の心持を種々の譬話で説き明かされたのである。放蕩息子の譬、主人が路上生活者を宴会に招くという譬とか、あるいは迷える羊を訪ねる話とか、どんな困った者にも救いがあると言うのがそれである(ルカ14章12~24節)。神の力によって、弱い人間を神の位にまで引き上げる。この運動が福音の運動、神の国運動である。罪ある者、萎れている者を慰め、これに救いと解放を告げるのが福音の運動である。たとえ堕落した生活をしていた人でも、一歩魂の向きが変われば、貴い神の子となれるのである。神は見逃されない。この救いの神に近づくには、どんな人でも軽んじないように愛をもって接することであるとイエスは教えたのである。 そしてイエスは教えの他に多くの人を癒した。それはイエスの奇跡行為である。盲人の目を開け、ヒステリーを癒し、リウマチで手足の委縮した人を全治させた。このようにイエスは人に教え、癒した他、磔刑にかかって贖いの死を遂げたのであった。

4 十字架と復活の福音

イエスが十字架につけられたのには三つの理由があった。第1は、形式宗教の否定、第2には、神殿の偶像化の否定、第3は、救い主の自覚であった。この3つの理由でイエスは迫害され、不敬罪として裁かれたのであった。 いまでもある人は宗教の形式的な部分を否定すると怒り出す人がいる。イエスの時代は牛や羊を焼き尽く献げ物とした。それには公認の焼き印が押してあり、通常の物より値が高かった。その差額で祭司たちは懐を肥やした。そんな時、イエスは献げ物は神に近づくのに何の益もない。神は祀りを好まず、あわれみを好むと言ったのだから金儲けをする道に反対するイエスを祭司たちが敵視したのは無理からぬことであった。 第2にイエスが嫌われた理由は、神を拝むのに立派な大きな神殿は要らないと言ったからである。 巨額の経費をかけて建てた大神殿に向かって「毀してしまえ、俺は三日で神殿を建ててやる」と言ったものだから反対を受けたのも当たり前であった。イエスは人の霊の中にこそ真の神殿は建てられると考えた。神殿の偶像化を否定したのであった。 代3にイエスはが嫌われた理由は、ひそかに自分が神の国の支配者だという意識があったためである。これは十字架につけられた直接的原因であった。ユダヤ人の考える、来るべきメシアは、物質的に困っているユダヤ民族に幸福をもたら為に革命を行なう方であった。ところがイエスは「私が来たのは人を裁くためでなく、人を救うためだ」と使命を告げて、罪人、売春婦、放蕩息子、貧しい民、弱者、ごろつきにまで救いを保証された。そのままそれを行ない告げたため殺された。その結果、イエスは十字架にかけられたが、世界における神の見方が変わり、イエスが見たように神を見るようになった。神の見方の基準が変わったのである。人を救うために、面倒な事も厭わない、損をすることも厭わない、死をも厭わない、それはイエスの神の国運動であった。そして罪人の罪、病者の病、借金苦の苦しみと共に墓に下ったイエスであったが、三日目にその墓を打ち破って甦られたのであった。このイエスに従い、イエスと共に生きる者の霊は、甦りが与えられるのである。どんなに薄汚れた身であってイエスの血潮によって雪のように清められる。

 適用 

このようにイエスの福音を知ると呪いの死を乗り越えて、甦りの工夫を知るのである。罪の闇から光へと生き返るのがイエスの福音である。誠に復活への道であり、神の力である。


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