top of page

「父ヤコブと息子ヨセフ」

  1節 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。2 節ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。3節 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。4 節兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。5 節ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。」

ヤコブは年老いてヘブロンで静かな生活をし隠退してしまったかのようです。しかしながら、霊的生活には隠退はありません。神は介入してきて、ヤコブの隠退とも見えるものを覆しました。それは息子ヨセフによってもたらされたのです。これは何を意味していたのでしょうか。神の主権の下におけるヤコブを見ることにしましょう。


1 ヤコブの偏愛

ヤコブはすべての息子たち以上にヨセフを愛しており、彼のために裾の長い晴れ着を作りました。これは愛する妻ラケルの産んだ息子でした。次にベニヤミンもおりましたが、彼はどの子よりもヨセフをかわいがりました。えこひいきしたのです。やがてそれが彼を苦しませました。この37章のあらゆることは、神の主権ある御手の下にあります。何の偶然もありません。例えば、ヨセフの兄弟たちはヨセフを憎み、穴に投げ込んだすぐ後、イシュマエル人の隊商がその場に現われ、彼の兄弟たちはヨセフを売ることに決めました。そしてヨセフはエジプトに連れて行かれ、ファラオの侍従長ポティファルに売られました。これらすべては神の主権の下にありました。ヤコブの偏愛ですら神の主権の下にありました。それは、ヤコブが円熟するためでした。それは単に造り変えられる以上に、神的命で満たされることです。新約的な言い方では、聖霊に満たされる事でした。


2 試練

   そのためにヤコブはまず、彼の心の宝を失うと言う苦しみを経なければなりませんでした。ヨセフはヤコブから取り去られなければなりませんでした。ではどのようにしてヤコブはヨセフを失ったのでしょうか。 17歳のヨセフは、兄弟たちの悪いうわさを父に告げたので兄弟たちから憎まれるようになりました(2節)。それは、彼は善良であったことと、父親のえこひいきによるものでした。またヨセフは二つの夢を見たこと彼らをさらに憎ませました。 二つの夢であったのは、「二」が確証と証しの数であるからです。両方の夢は一つの事を言っています。なぜなら麦束と星はいずれもヨセフにひれ伏したからです。第一の夢の麦束は、刈り取った神の作物で、ヨセフの麦束をひれ伏し、第二の夢で、ヨセフの家族(神の民の総合計)は、太陽、月、11の星で表徴し、それらがヨセフをひれ伏しました。ヨセフがこの第二の夢を父にも語ると父は彼に、「わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」(10節)ととがめました。ヨセフは率直で、オープンで、透明でした。喜んで自分が見た夢を兄弟たちに告げました。しかしそれが憎しみを募らせ、ヨセフは「十字架につけられ」ました。

  黙っているという知恵があったら、憎まれませんでした。 後程、ヨセフは父によって羊を飼育している兄たちを見に行くよう遣わされました。これも主の主権でした。兄たちは「はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺す」ことを企て、裾の長い晴れ着の剥ぎ取り、彼を穴に投げ入れました。長男ルベンだけは、ヨセフを殺さず救おうとしましたが、彼がいない間に、四番目の兄弟ユダは、殺す代わりに、イシュマエル人の隊商に売ることを提案しました。そうこうしている間に、ミディアン人の商人たちが通りかかり、ヨセフを穴から引き上げ銀20枚でイシュマエル人に売ったので、ヨセフはエジプトに連れていかれたのでした。イシュマエルは、ハガルによるアブラハムの子であり、ミディアンは、アブラハムの最後の妻ケトラによる子でした。彼れらは、肉を代表します。憎しみと肉は関係があり、肉はエジプトで代表されるこの世に繋がっています。兄弟たちの憎しみのゆえに、ヨセフは肉に渡され、肉はエジプトにもたらされました。しかし、神は万物の上に主権があります。肉も憎しみも神は用いられます。こうして神の目的を成就するのです。


 適用 

  ヤコブは愛する妻ラケルの死後、心を完全にヨセフの上に置かれました。ところが突然、その宝が奪われたのです。ヤコブの息子たちは父を欺き、ヨセフは獰猛な獣に食われたと信じ込ませました。これを聞くとヤコブは非常に悲しみました。これは、ヤコブだけではありません。私たちも円熟し、聖霊の充満を得るためにはそのような対処を受けるのです。これを恐れ、おびえてはなりません。主を賛美しましょう。37章だけが結論ではありません。栄光ある47章も見なければなりません。ヨセフは失われたのではありません。神は彼をエジプトで取っておかれました。ヨセフが、エジプトに連れて行かれたことは、さらに高い教育を受け、王職のために準備する教育を受けようとしていたのです。もちろんヤコブはこれを知りませんでした。私たちも同じ経験をします。しかし泣き悲しむ必要はないのです。むしろ、喜ばねばならないのです。


最近の説教
bottom of page