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「失望せず朝を待て」

12 イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、13 豊かになり、ますます富み栄えて、14 多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。・・・・23 イサクは更に、そこからベエル·シェバに上った。24 その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。[05:27.51]わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やすわが僕アブラハムのゆえに。」25 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。

 

 

私たちは肉の剥ぎ落しを経験する時、損失を覚えます。しかしそれは、新しい展開が待っているのです。それは神の恵みを獲得し、享受するということです。

 

 

1 損失と獲得

私たちのクリスチャン生活には二つの面、すなわちアブラハムの面、イサクの面があります。アブラハムの面は〈損失〉の面です。彼は多くの愛する者を失いました。しかしそれは恵みの中に導きいれられるためでした(ロマ5章2節)、そのための妨害は私たち自身です。そこで肉は対処され、割礼され、剥ぎ取られなければなりませんでした。こうしいったん自己が出て行き、失われますとイサクが生まれ出てきます。「自己を失う」とは、自分のメンツを失うことです。そうするなら恵みが来るでしょう。これがアブラハムに対する神の祝福でした。 しかし同時にこの祝福の造り込まれは、恵みの享受でイサクの生み出しでもありました。イサクの面は〈獲得〉の面です。恵みの中に入り享受することです。パウロは「生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられる」(ガラテヤ2章20節)と言い、その私が今あるのは、「神の恵み」によるのだ、と言っています(Ⅰコリント15章10節)。この二つの箇所を一緒にするなら、恵みとは私たちの中に生きておられるキリストであることを見ます。「私ではなく神の恵み」「私ではなくキリスト」です。恵みは、キリストであり、私たちのために生き、働き、事を行う三一の神です。

 

 

2 命の恵みの獲得

私たちは人を愛するように教えられてきました。その結果、人を愛そうと努めます。しかしそれはイシュマエルを生み出す愛です。それは神の訪れから来たものではありません。しかし、神の訪れ、神の恵みによる愛は、イサクを産み出す愛です。キリストによって生み出す愛です。私たちは、この社会が愛で満ちた平和なものとなることを願っています。しかし神は、御自身が人の中に造り込まれ私たちの命となり、生活となることです。もし神が愛で満ちた平和な社会を願うなら、それが存在するようにと言われるだけで生み出されるでしょう。神は「存在していないものを呼び出して存在させる」方であり(ロマ4章17節)、私たちの助けを必要とされません。ただ神は御自身を私たちのなかに造り込み、私たちのすべてとなりたいのです。つまり神の意図は、アブラハムを対処して、イサクが来ることです。私たちには多くの夜と朝があります。けっして自分の失敗に失望してはなりません。ただ数時間待つことです。そうすれば朝となるでしょう。キリストは、あなたの恵みとなろうと待っておられるのです。ですから、「主よ、来て下さい。あなたの仕事をなさって私の最上の夫となってください、そうすればあなたを賛美します」と祈ることです。主は常に最上の仕事をしてくだいます。これが〈恵み〉です。恵みとは、御自身を私たちの中に造り込んで私たちの享受となられる聖霊なる神、内住する神です。これは〈恵みの霊〉であり(ヘブル10章29節)、「命の恵み」(Ⅰペトロ3章7節)、「様々な恵み」(Ⅰペトロ4章10節)、「あらゆる恵み」(Ⅰペトロ5章10節)、「十分な恵み」(Ⅱコリ12章9節)です。こういうわけで恵みは私たちの外側にあるのでなく、私たちの中にあります。そこで私たちは〈恵みの霊〉、〈命の霊〉と呼ぶのです。この霊は私たちを通して人を愛する時、この愛が私たちの享受となるイサクを生み出す愛となるのです。イサクの面は獲得の面です。それは、外側のものを得ることではなく、内住している方、すなわち、〈恵みの霊〉、〈命の霊〉を得る事です。外側の〈祝福〉は、内側の〈恵み〉にならなければなりません。キリストが来られたのは、ただ私たちのために十字架で死ぬためだけではなく、その死後、「命を与える霊」となって、私たちの中へ入られるためでした。今やキリストは私たちの中におられ、私たちは主の中におられます。神がキリストの中で与えられるものは何であれ、私たちの享受となったのです。今や私たちは主の恵みの中にあります。イサクは、「神の恵み」を象徴するサラによって生み出されましたが、それは創世記18章10節、14節によれば直訳で「命の時」(カエート・ハイヤー)に起こったと言っています。これは天然の命の努力がやむ神の出番の時です。恵みは命と関係があり、命と並行しますので、「命の恵み」と呼ばれるのです。

 

 

3 安息と享受すること

イサクは父が持っていたものをすべて受け継ぎました(創世記25章5節)。イサクが父に服従した生活をしたのは、恵みで浸透されていたからです。そのとき神の備えを経験するのです。イサクの生涯は、多く苦しまず、安息し享受する生涯でした。確かに母親を失い、長い間妻がなく、結婚しても20年間子供は与えらず、井戸の事でペリシテ人との間で確執はありましたが、決して煩わされず、安息していました。また彼の180年の全生涯は享受の生活でした。120歳になって年老いても、「おいしい料理」に対する味覚も失われていませんでした(創27章4節)。彼は奮闘せず、享受しました。クリスチャンは安息し享受するように定められているのです。職を得る事や、妻や夫を得る事で煩わされてはなりません。私たちは神の子です。あわれな存在ではありません。全能の、すべてにおいて十分な神が私たちの父です。私たちには常に神の備えがあり、ただ神の訪れを、命の時を享受すべきなのです。これが私たちの運命です。 最後に、享受を持つ場所に注意してください。イサクが享受を持った井戸の場所は、まず「ベエル・ラハイ・ロイ」(創24章62節、25章11節)で神の訪れ・啓示の場所でした。次に、「エセク」で争い・口論・戦いの場所でした、第三の場は、「シトナ」で敵意・憎悪・敵対の場所でした。第四の場は、レホボトで広げられた場所でした。最後の場は、「ベエル・シェバ」で誓いの井戸の場所でした。イサクは、ベエル・シェバで育ち、母の死の後、南のネゲブ地方に移り住み、ラハイ・ロイから父の下に戻った時、妻リベカを得ました。享受が来たのです。結婚の後、飢饉があり妻と共にペリシテ人の地に行き、困難に出遭いました。井戸をめぐる争いを持ったのです。イサクの行った所はすべて享受と満足がありました。それは「井戸」で表徴されています。しかし神の目的を成就したのは、ベエル・シェバだけでした。そこで神が現れているからです。イサクは井戸のある所で幾らかの享受を得ましたが、神は満足せず、争いを起こし、強いてベエル・シェバに戻しました。イサクは争わず、別の場所に移り、別の井戸を掘る忍耐の人でしたが、それは彼が神の目的を悟らずいたためある程度の享受をいかなる場所に移っても得る運命にあったからです。イサクは規則正しく勤勉に働き、100倍の収穫を得て豊かになりました。しかしそれが私たちの立場を正当化させるものではありません。多くの場所で享受するとしても、そこには主の現れもなく、祭壇もなく、天幕もありませんでした。それは正しい立場ではなかったのです。神は強いて連れ出し、ベエル・シェバに戻されました。そこのみが神の目的を成就することができる場所だったのです。

 

 

適用

イサクは行動の人ではなく、享受する人でした。花嫁にしても、彼女の方からやってきました。イサクは黙想と祈りの中でリベカを浮けました。20年間子どものなかったイサクは双子を得ました。60歳になり子どものいなかったイサクは必要を感じ、祈りました。神はその祈りに答えられました。神の必要と合致しました。享受はクリスチャンの運命で、どこへ行っても井戸はあるでしょう。しかし神の恵みを享受する中で、人の協力を神に与える生活こそ求められているのです。失望せず朝を待ち望もうではありませんか。

 

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