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「ヤコブの選び」

アブラハム、イサク、ヤコブそしてヨセフは、分離した4人というより命の経験に関する限り1人の個人の4つの経験と考えられます。アブラハムは神の召し、イサクは神の選び(恵みの相続)、ヤコブは神の対処(造り変え)、ヨセフは神の支配(王職の執行)は、ヤコブの一部分であったヨセフにあります。ヤコブがエジプトに迎えられた時、パロが世界を支配する王でしたが、実権はヨセフにありました。しかしヨセフは自らを表さず、父ヤコブを表しました。よってその当時の世界は、ヨセフを通してヤコブによって支配されていたのです。彼は造り変えられて神の王子、イスラエルとなり、もはやヤコブではなくなり、その名は新しいエルサレムに見出されます。このように私たち信徒は、みなアブラハム、イサク、ヨセフを伴うヤコブなのです。世界を統治するという人間本来の目的を実行するのです(創世記1章28節)。

1 神の選び

ヤコブはろくでもない者、かかとをつかんで人を押しのける者でしたが、神に生まれる前に選ばれました。彼が選ばれたのは偶然ではありません。私たちが救われたのも神の選びの成就です。神の救いは決して偶然的なものではありません。ですから神を裏切ったり逃れたりしても、懲らしめはありますが、決して滅びることはありません。救われた者は、「しみもしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない教会」、キリストのからだの一部分となっています。このキリストのからだは、何の汚れもないのですから滅びる可能性もなく、救いを失うことはありません。よって私たちにうちだれ一人として滅びるはずがありません。 また神の選ばれて救われた者は、聖霊を証印として受けています。「救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証」です(エフェソ1章13節)。これは立派な生活をしている特別な人だけが持つのではないのです。すべてのクリスチャンが証印としての聖霊を持つのです。神に選ばれた人は、聖霊を持ち神に属します。ではその証印はいつまで私たちの中にあるのでしょうか。善良な生活をしている間だけでしょうか。そうではありません。エフェソ4章30節後半は言います、「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されています」と。「贖いの日」とは、何でしょうか。ローマ第8章によると、贖いの日とは主イエスが戻って来られる日であり、私たちの体が贖われる日である、と言います(23節)。ですから聖霊の証印は、主イエスの再来まで私たちの中に残っているのです。主の再来の時、体全体が携え上げられます(Ⅰテサロニケ4章16-17節)。したがって聖霊はただ数カ月しかとどまっていないのでなく、携え上げの日まで私たちの中におられるのです。もしある人が、救いを失って滅びることもあり得ると言うなら、聖霊の証印はどうなるのかを問いたいものです。神が、私たちは聖霊によって証印を押された者であると言われたのですから、この証印を取り除くすべはありません。またヨハネ14章17節で主イエスは、「この霊(聖霊)はあなたがたと共におり、これからもあなた方のうちにいる」と言われました。ですから一端私たちの中に入った聖霊は、離れることはありません。心が清くなく、悪い思いで満たされ、神の道からそれた行いをしたので聖霊は鳩のように飛び去ったと考える人がいるなら、これは絶対に間違っています。聖霊はそのようなものではありません。聖書は、「聖霊を悲しませてはいけない」と記しています(エフェソ4章30節)。確かに聖霊はそのような行いをするなら悲しまれます。しかし、去ろうとはされません。なぜでしょうか? なぜなら贖いの日まで聖霊は私たちの中におられるからです。このみことばの事実を否定することはできません。私たちは御子を十字架につけるという莫大な代価を払って買い取られました。もし私たちが救いを失うなら、神は損失を被るのです。これが、神が私たちを守られる理由です。守らなければ神が損失を被るからです。私たちが滅びると、損失を被るのは私たちではなく神御自身なのです。私たちは聖霊の証印を押された神の所有であり、神は大いなる代価を払ってでも私たちが失われないように守られるに違いありません。私たちはヤコブのように、神に選ばれた者です。ですからもがく必要もないのです。またこの神の選びは、神のあわれみと恵みからです(ロマ9章15節、11章5節)。私たちはあわれむべき、惨めな者であったかもしれませんが、神に選ばれたのです。この神の選ぶに、神の召しが続きます(ロマ8章28節)。私たちはみな魚のように神に釣り上げられました。その釣り針から逃れようとした人もいますが、釣り上げられたのです。これが主の召しです。



2 神の目的のために

私たちが選ばれ召されたのは、神の目的のためです(ロマ9章11節)。この目的が何であるかを知っているクリスチャンは多くありません。アブラハムもカルデアにおった時、突然、神が彼を釣り上げ、召し出し、捕えました。しかし真の始まりはガルデアではなく、この世の基置かれるが前の神の選びに開始しました。この始まりは、アブラハムではなくヤコブに見られます。神の王子へと造り変えられたのはアブラハムではなく、ヤコブでした。神の召しの目的は何でしょうか。それは、めされた者たちを「王」(この世の支配者)に造り変えることです。イサクは「おいしい料理」を享受することを知っていました。彼は他の何も知りませんでした。同じく、自分の生涯の目的が何であるか知らなければイサクと同じです。「救われて幸いな生活をして、平安と喜びを持ち、将来、天国に行きましょう」と言うでしょう。しかし聖書が示している召しの目的が、「神の子」たる身分にあることを啓示しています(エフェソ1章5節)。神は、私たちをあらかじめ選ばれ、召し出し、あわれな罪人を王の子たちの一員として造り変え、それが完了した後、私たちが王としてこの地上を支配することを目的としているのです。これは神の主権の代行です。ですから新約聖書では、私たちが「王とされた」と言っています(黙示録1章6節)。今や私たちは日ごと造り変えりの過程の下にあります。それは神の主権を行使するためです。 しかしもし私たちが自分を見つめるなら、「自分は神の子や王のようなものでなく、惨めな存在。救われて何年もたつのに哀れなものだ」と、こう言うでしょう。でも、失望したり、落胆することはありません。目下神の造り変えの過程にあるからです。

適用

創世記50章の内、25章半は、ヨセフを伴うヤコブの記録に割かれています。ヤコブは神に対処され、訓練され、最後に、神の王子となりました。ヤコブの経験の目的は何であったのでしょうか。平安、喜び、幸福な生活を持つことだったのでしょうか? 彼の生涯は、平安、喜び、幸福なものとは言えませんでした。それよりも神の対処を受け、神の主権を代行する者となったのです。今日、私たちもヤコブの道の上にあります。神は私たちを神の子とするだけでなく、イスラエル、神の王子とし、神の主権を代行する者として召しているのです。同労者、指導的な兄弟姉妹たちは、常に私たちの反対者とか願いにかなわない者たちであるかもしれません。しかしこれは偶然ではなく、神の按配によるものです。これは私たちの選択ではなく、神の選びです。そしてこれは出発点であって、造り変えの開始だと言うことです。いまや主が教会生活の中へともたらしてくださったことに感謝します。ここで神を代行することを実行しているからです。正常な教会生活を遠ざけることがないように注意しましょう。神の目的のため、神を表現し、代行することが長子の権を持つことです。エソウではなく、ヤコブでありますように。あらゆる状況の中で神が私たちを対処さることのゆえに、主に感謝します。


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