「命の円熟とアブラハムの晩年」
25:1 アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。2 彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ。・・・・7 アブラハムの生涯は百七十五年であった。8 アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。9 息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、10 その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。21 そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。
序
創世記25章に入りますが、ここではアブラハムの再婚と死、ハガルに産ませた子イシュマエルの子孫と彼の死、そしてイサクの息子エサウとヤコブの誕生、そしてヤコブノ狡猾な方法で獲得した長子の特権について述べています。この箇所は、神の永遠の目的を理解していないなら、その深い意義をくみ取ることはできないでしょう。主の憐れみを願います。
1 造り変え
アブラハムは年老いていましたが、イサクが妻をめとった直後、再び結婚しました。140歳になって妻ケトラとの間に6人の子を生みました。これは何を意味するのでしょうか。これはアブラハムが肉体の命は年老いていたのですが、霊の命においては円熟していなかったことを示しています。では命における円熟の証拠は何でしょうか。それは人を「祝福」することです。アブラハムはそれをしたようには見られません。再婚をしたのです。それは円熟のしるしではありません。アブラハムの生涯は3つに区分できます。イシュマエル、イサク、6人の息子たちを持つ区分です。イシュマエルは肉によって生み出され、イサクは神の恵みによって生み出され、6人の息子たちは更に肉によって生み出されました。第3区分では、第1区分の6倍に肉の働きは強化されています。確かにアブラハムはイサクだけを相続人として認め、他の息子たちを遠ざけました。しかしアブラハムは、神は欲しなかったことを行なったのです。肉の子らを生み出すことが、どうして命が円熟していると言えるでしょうか。つまり創世記25章の意図は、このことを明示することにあったのです。彼は死ぬまで十分な造り変えを持たなかったと言うことです。 「造り変え」とは何でしょうか。石化した木の例を用いて説明します。水が木を通して流れると木の成分が流れ去り、鉱物の成分がそれに代わって加えられます。こうして木は石となります。このように私たちは木のように、生ける水の流れにさらされると天然の成分は流れ去り、聖なる、霊的な成分だけが付着し、造り変えられるのです。アブラハムは神の導きに従って行動した人ですが、私たちの模範とはなりませんでした。
2 祝福を与える
アブラハムは175歳で長寿を全うして召されマクぺラの洞穴にサラと共に葬られました。未完成の彼は、息子のイサク、孫のヤコブの生涯によって完全にされ、完成されなければなりませんでした。同じく私たちの神も、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と三人の神ではなく、一人の三一の神です。アブラハムにおいて父なる神を、イサクにおいて子なる神を、ヤコブにおいて聖霊なる神を見ます。父と子と聖霊なる神、三位一体の神です。聖霊は、手順を経て、御父と御子の成分をもった主の命を与える霊です。それは選ばれたヤコブを通して見るのです。アブラハムは命におけるヤコブの円熟を必要としました。イサクは確かに人を祝福しましたが、盲目的に祝福し、だまされ間違った人を祝福し、エソウではなくヤコブに長子の権を与えました(27章)。ヤコブは円熟してから、自分が会った誰をも祝福しました。彼はエジプトの王に会うや祝福しました(47章7節)。イサクは年を取って目がかすみ見えなくなっていて兄と弟を識別できずにだまされてヤコブを祝福しましたが、ヤコブは目がかすんで見えなくなって、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福しました(48章9節)。その時右手で弟を、左手で兄を祝福した時、間違いを指摘されましたが、彼は間違いではなく分かっている、と霊的識別力が十分あることを知らせました。ヤコブは12人の息子たちを明確に豊かに祝福しました。
適用
命の円熟は、祝福者であるかどうかで分かります。祝福の言葉が、聖書における預言の基礎です。ヤコブは人を押しのけ、かかとをつかんで自己を主張する人でしたが、造り変えられて「イスラエル」と名を改めました。命に満ち、祝福する人となったのです。創世記の終わりには、ヘブル人ではなく、新しく造り変えられたイスラエル人を見ますが、神の姿に造られた人が、内側までが神の命で造り変えられた人を見るのです。アブラハムは召された日から奪い取られました。兄を、父を、ロトを、エリエザルを、イシュマエルを、イサクを、そしてイサクが戻されるや、サラを奪われました。しかし私たちは奪い取られながらも、イサクのように父の財産を享受するのです。苦しみつつ喜ぶのです。多くのクリスチャンは押しのけているか不平を言っている人ばかりです。教会についての不平はしばしば聞きます。不平は未熟のしるしです。円熟すると、すべての兄弟たちを祝福してくださいと祈る人に変わります。押しのける手が、祝福する手になります。最悪の人ですら祝福するようになります。アブラハムの未熟さは、ヤコブによって円熟となり、祝福する人となったのです。三一の神は、聖霊において人を祝福するのです。聖霊で満ち溢れて、祝福する者に造り変えられましょう。これが神の目的、願いです。