「未来のための門マクペラの洞穴」
16 アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。17 こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、18 町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。19 その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。20 その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。
序
新年早々、サラの死と埋葬についての箇所を説教することになりました。なぜ今なのか、またなぜ創世記23章では20節も使って記録しているのか分かりません。しかし聖書は神の言葉は神の息ですから何か意義深いものがあるに違いません。おそらくこの章は私たちが新しいエルサレムを見ることのできる窓なのでしょう。はるか遠い未来にある永遠の幕屋を凝視しながら、この一年を展望する機会を与えているのではないでしょうか。
1 証しの生活
創世記22章でアブラハム、サラ、イサクの家族はベエルシェバに住んでおりました。これは教会生活の模型です。それは生ける水の井戸のある場所だからです。そこからサラはヘブロンへ前進し、神との交わりの場所で死に、葬られました。それはエルサレムへの途上にあります。ヘブロンのマクペラの洞穴は、新エルサレムへの門です。サラは127歳で死にました。アブラハムは175歳まで生きました(25章7節)。この時、イサクは37歳で、まだ未婚でした。それゆえ愛する人を失った家族にとって大いなる損失でした。アブラハムの歴史は、常に何かを取り去られた歴史でした。ロトが去り、エリエゼルアが去り、イシマエルが去り、イサクが神の祭壇でささげられました。そして愛する妻が去ったのです。イサクがささげられ、復活の中で戻されましたが、今度はサラが取り去られたのです。それにより幸いも楽しい家庭の雰囲気も取り去られました。今年がサル年だからこれを強調しているのではありません。私たち召された者は、いつもこの地上の生活が旅人の生活であり、絶えず永遠の住居を待ち望む寄留者、旅人であると言うことです。 アブラハムはサラのために嘆き、悲しみ、その妻のためにへトの人々に墓地を譲ってほしいと頼みました。アブラハムはとても強い証しがありました。それで彼らは彼を「ご主人」と呼び「神の選ばれた方」(原語で「神の族長」と呼び尊敬されていたのです。彼自身の目には、旅人・寄留者でしたが、人々の目には、神の族長、真に重みのある人でした。私たちも同じ証しを持つ必要があります。地域近隣、職場、学校で軽くあったり、人から見下げられないように、重々しく人が高く評価するように振る舞えるようになったら良い証しができます。大胆に祈り、良い振る舞いをするだけでなく、重みをもたなければなりません。永遠の神の御名を呼び求めるなら、ますます重々しくなってきます。神は金だからです。呼び求めるなら私たちは金に造り変えられるからです。皆さんも「神の族長」になりますように。かくしてアブラハムは人を尊敬し、手厚くもてなしました。そのお返しとして人の尊敬を受けました。また彼は賢く振る舞いました。決して人を利用せず、丁重に欲しい墓地を贈り物として提供された時、彼はその価値が銀400シケルであることを知るや全額支払ったのです。彼は機会を捕えて人を利用したり、また値段の事で値切ったりせず、ヘト人エフロンが示した代価を全額、現金で払いました。同じように私たちも人に乏しさを印象づけるのでなく、主にある豊かさを示すことです。これが私たちの証しです。私たちは進んで損失をこうむり、人を利用すべきではありません。損をしても神を表現するなら、生きるのです。
2 復活の期待で満ちた場所
主イエスは地上にあった時、良い住まいを持たれませんでした。しかし亡くなった時、富める人アリマタヤのヨセフという人が備えた良い場所に葬られました(マタイ27章57~60節)。聖書ではこれが原則です。立派な家に住むのでなく、最上の墓に置かれるのです。しれは主と共にある生活です。アブラハムが待望していたのは「堅固な土台を持つ都」でした(ヘブル11章10節)彼は妻サラがその都にいることを信じました。この信仰は復活信仰を暗示します。サラは復活に入ったのではなく、その門に入ったのです。マクペラの洞穴を買った目的は、妻と共にそこに入ることを意味しています。ヘブル語で「マクペラ」とは、二重にするを意味します。一対の人として葬られることです。そして洞穴だけでなく畑も買ったのは、そこが命の場所、復活に満ちた場所であったからです。聖書では、畑は命の成長、すなわち復活を表徴します。マクペラの洞穴は、終結の場所でなく、復活の期待に満ちた場所であったのです。
適用
いま皆さんはどこにいるでしょか。復活の期待に満ちた場所におられますか。マクペラの洞窟は、生きるためアブラハムの墓地は未来の為にありました。現在のために用意したのでなく、未来のための門として用意したのです。そして未来はイエス・キリストの手のなかにあります。私たちがキリストの中に宿り、キリストが私たちの内側に宿ることが私たちにとってマクペラの洞穴生活で、それは主と一対になった生活、未来の復活を信じる召された者としての生活です。この復活の主の命を与える霊と私たちの霊とが一対となって過ごす所に希望に満ちた一年が備えられていることでしょう。