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「主の山に備えあれ」

2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」・・・・・・・・14 アブラハムはその場所をヤーウェ·イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

アブラハムは二人の息子を持ちました。彼らには2つの井戸が与えられた、2種類の生活が始まりました。イシュマエルの井戸はエジプトに近い荒野にありました(創21:19)。そこで成長したイシュマエルは弓を射る者、殺す者となりました。「荒野」は常に聖書では、神の拒絶された場所を代表します。ここに住む魂は、さまよい容易にこの世に流れ込みます。彼は妻にエジプト女性を迎えました。イサクの井戸はペリシテ人の地に近いベエル・シェバにありました(創21:31)。この井戸(ベエル)はアブラハムが掘ったもので⒮ビメレクの部かによって奪われていたものです。そこでアブラハムは7匹(シェバ)の雌の小羊の代価で贖いました。この小羊は、キリストの贖いを予表し、神聖な生ける水が主の贖いによって買い戻されたことを示しています。多くの人は贖いのない源によって生きていますが、私たちは贖われた源によって生きています。その生きた水は、天然のものでなく、主の贖いの代価で贖われたものです。またそれは契約された水です。そこでそのいどのある場所は「ベエル・シェバ」と呼ぶようになりましたが、「契約(誓い)の井戸」を意味し、教会があるべき場所です。アブラハムはそこに一本のぎょりゅうを植えました。それは柳の木で葉が細く、水辺に生育し、命の豊富な流れの印象を与えます。私たちもぎょりゅうになる必要があります。イサクの井戸のそばでは植えることが見られます。弓を射って殺すのでなく、人を植える生活です。教会生活は、人を殺すのでなく、生かすとこです。肉を殺して、霊を生かすのです。魂という荒野の天然の中から、霊という園の中の贖われた源へと移されるのです。アブラハムは奪われた井戸のために闘いました。私たちも神聖な井戸のために闘い、正しい教会生活を取り戻す必要があります。ここでアブラハムは「永遠の神、主の名」を呼んだのですが、それは神を永遠の命として経験したのです。この生ける命の水の源が、イサクを「焼き尽くすささげ物」とします(創22:2)。この生ける水は、イサクをエジプトへ下って行くのではなく、モリヤ山に連れて行きました。モリヤとはヘブル語で「神のビジョン」を意味します。後に、このモリヤ山はシオンの山となり、その上に神の都エルサレムが建設されたのです(歴代下3:1)。この永遠の命の水は、私たちをイサクとし、新しいエルサレムへと導くでしょう。アブアハムから2種類の民が存在するに至りました。この世に結び付いて魂の荒野で生活するイシュマエルに代表される人と、霊の中で、また教会の中で神のために生き、シオンにもたらされるイサクに代表される人です。これは2種類のクリスチャンがいることの暗示でもあります。あなたはイサクでしょうか、イシュマエルでしょうか。

1 与えられたものを返すこと

突然、神はアブラハムに恵みの中で与えられたイサクを返すように言われました。モリヤ山に登って行ってそこでイサクをささげ物として備えなさいと命じたのです(創22:2)。多くのクリスチャンは神から与えられたものを返す学びを学んでいません。それでは信仰の成長がありません。賜物を受けている人がおられるでしょう。しかしそれをいつまでも保持していてはいけないのです。ささげ返す必要があるのです。これには目的があります。最上のものをささげることは容易ではありません。困難な業です。しかしこれは通過しなければならない信仰の道なのです。弓を射る者となったイシュマエルは下ってエジプトに向かい、焼く尽くすささげ物となったイサクは上ってモリヤへ行きました。イサクは父に「火と薪はありますが、焼く尽くすささげ物はどこにありますか」と尋ねました。彼は自分がささげ物になるとは知りませんでした。ベエル・シェバでの水を飲めば飲むほど、モリヤ山での火のために準備されるのです。それは狭い道です。焼き尽くすささげ物の香りは、神に昇って行きます。イサクはアブラハムの顧みの中で育てられ、神にささげられました。その後、彼は復活の中で戻されました(創22:12)。

2 大いなる祝福と増殖

復活の中で戻されたイサクは、天然のイサクでなく、復活したイサクでした。私たちが神から受けたものを神にささげた後、神はそれを私たちに復活の中で戻してくださいます。私たちが与えられたすべての賜物、祝福、働き、成功などを一端神のお返しする時、神は復活の中で戻してくださいます。これは信仰の純化のために必要な事です。これをしませんと一粒の麦のままです。しかしそれを神のささげ返すなら、復活の中で戻され、大いなる祝福と増殖となります。これは神の道を行くことです。その時、同時に神はビジョンを与えて下さいます。

3 復活を信頼する信仰

アブラハムが愛するイサクをささげるように求められた時、どうしてあれほど従順であったのでしょうか。それは復活される神を信じたからです(ヘブル11:19)。それはイサクをもって打ち立てられる大いなる国民を造り出すという神との約束を受けていたからです(創17:19)。アブラハムは、「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神」を信じたのです(ロマ4:17)。彼は、死者に命を与えること、無から有を呼び出すことの2つで神を信じたのです。したがって彼は神の求めに応じたのです。しかも神の啓示にしたがって行動しました。神は彼に何を行うか、どのように行うかを告げられませんでした。ただ神の啓示と指示にしたがって、神が命じられた通りに行動しました(創22:3)。ベエル・シェバからモリヤまで約88キロありました。それは十字架の旅路です。3日目に到着した場所は確かに復活の場所でした。そのモリヤ山で、アブラハムは疑いもなく神のビジョンを見ました。その場所でアブラハムがイサクを縛って祭壇の上の薪の上の載せ、刃物を取って屠ろうとするや、主の御使いがそれを制止しました。周りを見回すと木の茂みに雄羊が角をとられていたので、息子の身代わりにささげ物としました。そのためその場所を「ヤーウェ・イルエ」(主の山に備えあれ)と呼んだのです。

適用

神の備えは常にビジョンを与えることです。神の備えにあずかり、ビジョンを持つのです。神は私たちの必要を見られ、備えられます。その備えはどこにあるのでしょうか。それはシオンの山の教会生活にあります。教会にてささげる訓練を受け、愛する訓練を受けます。こうして神の復活の力を知り、神の永遠を見ます。私たちは神を見、神に見られています。かくして神は備えて下さるのです。アブラハムはイサクをささげました。そのとき彼は神のビジョンを持ち、復活の確信を持ったのです。


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