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「イサクの誕生とソドムの破壊」

創世記18章10節「彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。」同20節「主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。」

アブラハムの神との交わりは、彼が割礼され、天然の人が終らされた後に、始まりました。創世記18章で神はアブラハムの前に人の姿を持って現れました。3人の人の内の2人は御使いで、1人は神でした。それはヘブロンのマムレの樫の木の下における現われであったのです。アブラハムは彼らのために足を洗う水を用意し、食事を用意しました。彼はそれを捧げ、神との交わりを持ったのです。このような神との親しい交わりを享受していた時、彼は神からイサクの誕生とソドムの町の破壊に関する啓示を受けたのです。イサクの誕生はキリストと関係があり、ソドムの破壊は罪に対する神の裁きに関係があります。イサクは来なければならず、ソドムは去らなければならないのです。神は私たちとの交わりを通して、キリストを生み出し、すべての罪深いものを除き去る事をもって私たちに対処されます。信仰生活が生き生きとなる為には、キリストが私たちの内側にもたらされ、聖霊充満となり、ソドムが破壊されねばなりません。

1 イサクの誕生

キリストはどのようにして生み出されるのでしょうか。 第1に、約束があります。イサクの誕生の約束は創世記17章19節と21節において告げられ、18章10節でそれらは確認されました。同様に、私たちはキリストが私たちの命、供給、すべてとなられるという約束を持っています。聖書はキリストが私たちの所にこられるという約束をしています。第2に、イサクの誕生は、「来年の今頃」つまり定められた時でした(17章21節、18章10節、14節)。キリストも神の定められた時に誕生しました。第3に、アブラハムは死んだように年老い、サラは機能を失っていた時にイサクは誕生しました(18章11節)。キリストが誕生するのも、私たちが無となる時です。第4に、主は「主に不可能な事があろうか」と言われました(18章13節)。キリストの誕生も不思議な御業です。サラがどのようにしてイサクを生み出したのか、それは人には不可能なことです。しかしキリストを宿したクリスチャンにはこのような不可能なキリストの御業が起こってまいります。私たちは鉾の人にできないこともできるようになり、他の人がなれないものになることができるのです。なぜならキリストを宿すことが驚くべきことであり、不思議だからです。

2 ソドムの破壊に関して

アブラハムが受けた第2の啓示はソドムの町の破壊でした(18章16~21節)。神と2人の御使いたちはアブラハムとの出会いで満足し、力づけられ、新鮮にされました。そこで彼らは、立ち上がってソドムの方に向かいました。そこでアブラハムは彼らを共に歩き、見送りました。その時、神は「私が行なおうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」(18章17節)と考え、ソドムの町を裁く意図を彼に、「ソドムとゴモラの罪は非常に重いので、そこに下って行き、私に届いた叫びの通りかどうか見て、それを確かめよう」と告げたのでした(18章20節)。神の心はそこに住むアブラハムの甥ロトのことを案じ、とりなす者を求めておったのです。2人の御使いが去った時、アブラハムは主と別れず、なおも主の前に立っていたのです。その目的は、とりなしのためでした。神は心のなかにあったことを託することのできる人、その心の思いにそって答え、その願いに呼応する人アブラハムを友に持ったのです。ソドムの破壊を告げた目的は、アブラハムのとりなしを求める事であったのです。

適用

神がアブラハムのところに来られたのは、とりなす者を求めていたからです。神はソドムの町の裁きを決定しても、その町に住むロトを忘れませんでした。軌道を逸れた歩みをしている人のためにとりなし、支えてくれる人が必要なのです。神はアブラハムのところに行き数時間とどまりました。しかし来た目的は、別れ際、別れを惜しんだアブラハムを知り初めて告げました。それはロトのためにとりなしでした。とりなしの第一の原則は、神と親密になることです。主イエス様がコラジン、ベトサイダ、ティルス、シドン、カファルナウムの町々を叱ったのも、同じようにとりなす者を求めていたからです。主の悪霊払いの目的もまた人を正常な元にあった場所に連れ戻すとりなし者、働き人を要請する神の熱情にあったのです。教会の人々もこの世に流れ込んでいる人もいます。私たちは彼らが懲らしめを受けないようにとりなさなければならないのです。


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