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「割礼としてのペトロの否認」

聖書 創世記17章13節 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。マタイ26章33~35節 33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

アブラハムの生涯が祝福されたものとなるための条件として、創世記第17章で割礼を施される必要を告げました。彼のすべての場所、人は奪われました。残っているものは唯一、彼自身でした。神は入って来て、アブラハムの肉、天然の力を断ち切り、割礼するように対処されたのです。

1 割礼の必要

なぜ割礼の必要があるのでしょうか。一方で、神は人を必要とされます。もう一方で、神は人からのものを何も欲しくありません。しかし、召された者はだれでも「神よ、私は何もかもすべてをあなたのために捧げます。持っているものすべてを取り去ってください、それらはすべてあなたのものです」とは願いません。その反対に、「持っているものは何でも主のものです」とは言います。ペトロの例を考えてみて下さい。イエスは弟子たちに主を愛し、主に従うように告げました。しかし、主は彼らのものは何も欲していなかった事を理解しませんでした。主イエスが弟子たちに、彼らはみな主のゆえにつまずくと言われた時、ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、私は決してつまずきません」、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました(マタイ26章33節、35節)。しかし主はペトロに言います、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロが3度主を否認したことは、彼にとって事実上の、実際的な割礼で、高慢で、自信家であったペトロは、主への否認という割礼によってずたずたに切り裂かれました。

2 自ら割礼を施す決断を

神は私たちを必要とされているのですが、私たちの何かが主のために必要なのではありません。神は私たちの何も欲してはいないのです。ですからみな割礼される必要があるのです。逆に、神は私たちの一切の必要を備え、与えようとなさってくださるのです。神が私たちの肉を裂くことを願っておられるのですが、直接したいとは考えていません。私たちが進んで神の協力し、自分の肉を裂くことを願っておられるのです。したがって私たちは割礼のナイフを取って、自分の肉、自分の中にある世俗的な動機や古い習慣を切り捨て、終わらすことです。これを実施しない事には、神の出番がないからです。これらの肉的事柄は、神の出番を妨げるからです。いくら祈っても、割礼をしない限り、力ある結果は生みでないでしょう。アブラハムはそれが出来なかったばかりに神の現れが13年間も遅れました。おそらくアブラハムにこう言われたのではなかったでしょうか。「アブラハムよ、私はおまえから多くの物を取り去った。しかしまだ私の働きを妨げているものが一つ残っている。それはあなたの肉だ。それを強制はしない。私は私に協力して、自らを切り、自らに割礼を施すことを願っている。あなたができることは何一つ私を喜ばせはしない。天然の力が残っている限り、私はあなたの中に入ってイサクを生み出す道がない。早く穴や肉を切り裂いてもらいたい」。

適用

割礼の意義は、神の目的を妨げる、あなた自身を除き去ること、肉の体を脱ぎ捨てることです(コロ2章11節)。多くのクリスチャンは罪に打ち勝つこと、悪霊に勝利することを語りますが、それは基本的な対処ではありません。本質的な対処は、罪深い肉を脱ぎ捨てることです。それは天然の強さ、能力、力、才能、エゴ、「わたし」を含んでいます。ですから割礼とは、自己を終わらせることを意味します。罪に打ち勝とうとすれば、それに巻き込まれ、悩まされます。したがって最良の方法は自分自身を終わらせることです。こういう訳で、「死んだ者は、罪から解放されています」(ロマ6章7節)とパウロは教えました。また割礼の積極的な意義は、私たちを復活の中へともたらすことです(コロ2章12節)。新しい人に造り変えられるのです。今までの人ではなく、別の人になるのです。ですから旧約の割礼は、新約の洗礼に等しいのです。また名を変えるに相当し、人格の変貌を意味します。それはキリストの中での割礼で、彼と共に葬られ、甦るのです。それは神の霊によって遂行されます。復活の中に導き入れられると、主の豊富が供給されます。内側の生ける霊が働き出すのです。これによって新しい人を着る、つまり教会に生きることができ、子孫と良き地を持つことができるのです。復活の人になりましょう!


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