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「完全な者となりなさい」

99歳になったアブラハムに現われた神は「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。私は、あなたとの間に契約を立て、あなたをますます増やすであろう」と言い、彼に2つの事を命じられました。神に従い共に歩むことと、完全な者となることで、それは私たちが不毛な人生から豊かな人生、平安と喜びに満たされた生活を得、神の永遠の目的が成就されるためでした。

アブラハムの生涯が祝福されたものとなるための条件として、創世記第17章で割礼を施される必要を告げました。彼のすべての場所、人は奪われました。残っているものは唯一、彼自身でした。神は入って来て、アブラハムの肉、天然の力を断ち切り、割礼するように対処されたのです。

1 完全な人

アブラハムが全き者、完全な者となるように告げられたのは完全でなく、何かに欠けていたからです。そこで彼は、全能な神に従って歩みなさいと命ぜられました。完全にする要因は神御自身であるので、人の目にどれほど完全に見えたとしても私たちの内に神がなければ、何かに欠けていることを実感するでしょう。なぜなら神が私たちの生活に加えられなければ、私たちの生活は不完全なまま、満たされないままの状態です。実際的に言って、完全であるとは、私たちが肉の力、自分の経験、能力、財力、知識などに頼らないで、すべてにおいて十分な力のある方に信頼することを意味します。例えば、私たちの多くは自分のかんしゃくに悩まされます。そのような時は神に信頼していません。それは自分の思いでかんしゃくに打ち勝とうと努めたりすれば失敗します。むしろかんしゃくを忘れ、神に信頼し、内側に生きておられる復活の命を与える主イエスの霊との関係を絶えず断ち切らず、その霊に願い、物事が解決するように祈り求める瞬時を持つ事がかんしゃくを征服する方法です。それには生きたみことばを記憶し、内側に絶えず保つことを学ぶ必要があります。

2 普遍的な人

主イエスも弟子たちに命じられています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)。アブラハムは名をアブラムからアブラハムに変えます。アブラムは「高くされた父」を意味しますがアブラハムは「多くの国民の父」を意味します。それまで神が加えられてはいませんでした。神が加えられて完全な人になりました(創17章5節)。妻のサラの名も変えられました。サライ(私の王女)は、サラ(諸国民の王女)に変えられました。神が欠けていると、私たちは常に「私の趣味」「私の仕事」「私の家」「私のお金」「私の教会」といったことを言います。神が加えられると、「諸国民の母」となるのです。私たちは普遍的な人となり心の広い人になります。

3 心の広い人

私たちが心の広い人になるには名前を変え、神を加えるだけではありません。創世記17章10~11節を見ますと割礼されねばならないのです。新約聖書の中で、割礼の霊的意義を見出します。コロサイの手紙第2章11~12節で「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」とあるように、割礼とは、肉を脱ぎ捨てること、自己と古い人を脱ぎ捨てることで、それは罪の対する対処ではなく、キリストと共に十字架につけられ葬られる事柄で肉が切り去られる事柄です。私たちの天然の力が残っている限り、神の出番はありません。神の働きを妨害するからです。パウロは、「私たちの古い自己が十字架につけられた」と告げ(ロマ6章6節)、アブラハムもまた十字架につけられねばなりませんでした。これが割礼でした。霊的な割礼を受けた者は、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と宣言するのです。私たちはみな、古い人、自己が十字架につけられたという認識をもって生きる必要があります。この割礼は信仰による義認のしるし(ロマ4章11節)、自己を終わらせたというしるしで、悪霊との交わり、肉の生活を終わらせることです。

適用

完全な人となり、割礼を受けることは、神を内側に加え生けるキリスト(子孫であり良き地)を心に宿す条件です。肉、自己、古い人が終らされた時、戸が開かれ、神が入って来てイサクを生み出すのです。割礼は常に生まれてから8日目に行われ(創17章12節)、8日目は、新しい週の初めの日で、復活における新しい出発、開始を示します。十字架につけられた生活を始めるために復活の中の新しい開始のために、すなわち割礼、十字架につけられた生活を持ちましょう。


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