top of page

「ノアの失敗」

創世記9章20~28節「20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。21 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。22 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。23 セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。24 ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、25 こう言った。「カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」26 また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。27 神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ。28 ノアは、洪水の後三百五十年生きた。」

 このメッセージでは、洪水の後、新しい地で指導者であったノアの生活の影について見ます。教会生活でもすべての積極的な面のただ中で、否定的なものが起ってきます。それをノアの失敗を通して見ましょう。

1 キリストの覆い

 なぜノアが失敗したのでしょうか。それは彼が大いに成功したからです。彼は新しい大地の指導者、農夫となってぶどう畑を作り始め、それに成功し、ぶどう酒を造りました。こころが幾らかたるみ、ぶどう酒を飲み過ぎ、酔いしれ、不注意になり、知らずの内に裸になって破目を外しました。成功した時はいつも注意しなければなりません。「裸になる」とは何を意味するのでしょうか。それは、神の目にあなたの覆いを失うことを意味します。人は覆いを必要とします。霊的だけでなく、肉体的にも覆いが必要です。私たちは性質において罪深く覆いが必要なのです。物質的に言えば、覆いは衣服です。神は堕落したアダムとエバに獣の皮衣で覆われました。それは、キリストの予表です。私たちは失敗を防ぐ意味において、霊の覆いを必要としています。それはキリストです(ガラ3章27節)。霊的に言えば、覆いを失うことは、キリストを失うことを意味しています。成功して興奮した話の中で、たるみ、不注意となり、教会での交わりの中で覆いであるキリストを失わないように学びましょう。祈りの集会だけでなく、語り合いの集会でもすべての兄弟姉妹たちが完全にキリストの覆いの下にあるのを見ましょう。そのような集会は祝福されます。覆いを失ってあらわにされている者を見る時、失敗が起ります。従って態度、会話、交わりにおいてさえ、完全に覆われることを学びましょう。

2 失敗を覆う行為

 ノアは失敗したのですが、子どものハムの子カナンは呪いを受け、セムとヤフェトは祝福を受けました。なぜならハムはノアの失敗をあらわにし、セムとヤフェトはノアの裸を覆ったからです。私たちも人の失敗をあらわにして呪いを受けるのでなく、人の失敗を覆い、時には人の損失をも償ってあげる勇気を持つことです。そのような人は神の祝福を受けます。 霊的指導者モーセは神の民以外のエチオピアの女と結婚して過ちを犯しました(民12章1節)。姉のミリアムはモーセを非難しました。すると彼女は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなり呪いを受けました(民12章10節)。それは彼女が神の立てた権威を否定的に取り扱ったからでした。ダビデ王はウリヤを殺してその妻を奪うという重大な間違いを犯しました。それにより彼の子アブサロムは父に反逆し、死の呪いを受けました(サム下18章15節)。神の立てた人をさげすんだり、人の失敗を非難したりして、その失敗を覆わない人は祝福を受けません。

適用

 神の祝福を失わない生涯でありましょう。連戦連勝の生涯は、神の権威に触れ、人を愛し、人の失敗を覆い、贖うキリストのような十字架の背負う生涯です。ハムは二人の兄弟に話した父の姿は事実に基づいていました。彼は噂を広めたのでも、偽りを告げたのでもありません。しかし、神の立てた人への思いやりに欠けていました。ノアの失敗は個人的な事柄でした。しかしノアに神の代理権威である立場はそれ以上のものでした。神の権威を損なわせるものであったのです。したがってハムの背後に、神の権威を損なわせようとするサタンの目の輝きがあったことに気づくべきなのです。サタンはこのように指導者の失敗を手玉に取って教会を破壊しようともくろんでいるのです。人の失敗を見るのでなく、人の長所だけを見ることを学ぼうではありませんか。人が正しいか、間違っているかでなく、神のご計画の下で維持されている秩序を守り、正しい地位に自らがとどまるなら、人の失敗は私たちの天幕の祝福となるでしょう。


最近の説教
bottom of page