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「雲の中の虹」

創世記9章14~17節「14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」17 神はノアに言われた。『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」 ローマ8章1節「1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

 洪水の後、箱舟から外に出たノアは復活した人の新しい生活を始めました。最初にしたことは何らかの働きではなく、祭壇を築き犠牲を捧げることでした。それは十字架を通してキリストを神にささげることでした。十字架に行ってノア自身を殺すことでした。神のために何かをする前に、十字架に行って自分を殺すのです。夫が妻を愛するなら、自らを殺し、夫に仕える妻もまた同じようにし、神のために働くには天然の働き、奉仕、振る舞いを葬り去ることです。十字架を経験すれば、そこにはキリストだけが残ります。そのとき神は満足されます。私たちは祭壇で殺されねばなりません。

1 呪いを追放する

 十字架を通してキリストを神に捧げることは、呪いを追放します。人は第一の堕落の結果、呪いの下に置かれました(創3章17節)。呪いとは何でしょうか。究極的に、呪いは死です。すべての苦難を含め、死は呪いの究極的完成です。私たちが十字架を通してキリストを神に捧げることは、呪いを追放します。それは、死を追放することです。すべてのつぶやき、噂話、批判、不平は死の呪いのしるしで、これは十字架の経験によって対処されます。十字架の経験を持たずに教会に来ても私たちは死の呪いの下にいます。私たちが死の下にある感覚を持つ時はいつでもその集会は呪いの下にあります。しかし集会が命で満ち、何かが生きているという感覚を持つ時、呪いはそこにありません。私たちは命の祝福を持ちます。良い教会では死が飲み尽くされ、呪いが追放されています。

2 正常な教会生活

 私たちは神の祝福の下で正常な教会生活を持たなければなりません。朝の礼拝に出るには夜を昼とし、昼を夜とするような生活をしていてはできません。無理をすれば体を損ないます。クリスチャンは正常な教会生活を持つために、日常生活を改善しなければなりません。正常な生活を持たないと、呪いの下に置かれます。 教会の多くの人たちは、教会生活に入る前、弱くて病気がちであったと証しすることができます。多くの人は精神的に病んでいましたが、教会生活に入った後、冷静になり健康になりました。これが祝福です。この祝福は、十字架を通してキリストを神に捧げた結果としてくるのです。教会生活が、神に捧げるキリストがあなたを癒してくださいます。教会生活は正常な生活ですから、神の祝福をもたらします。平安、喜び、愛、親切など命の祝福のしるしで溢れます。

3 神の契約の下で生きる

 神はノアとその子孫と、すべての生き物と再び死の水の裁きをもたらさない契約を立てました。箱舟を出た後、ノアの家族は再び洪水が来るのではないかと恐れていました。私たちも救われてからもまだ死のおびえがある人がいます。安心しなさい、キリストの中で今や、罪定めはなく(ローマ8章1節)、死の水はありません。それは雲の中に現われる虹を見る時、知るのです。怒りの雲、かんしゃくの雲が巻き起こっても、彩りのある虹を送ってもらい、それに心をとめる時、神の祝福を思い出し、神の呪い、裁き、罪定めから自由になるのです。これがノアやその子孫である私たちに与えられた契約です。教会生活は契約生活です。

適用

 Ⅰコリ10章13節の神の約束はこうです「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。何が起こってもこの約束の下で生きるのです。これはノアの契約によってもたらされた祝福です。


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