「バビロンを出よ」
イザヤ書48章20~22節「20 バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。21 主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。22 神に逆らう者に平和はない、と主は言われる。」同52章11~12節「11 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ、主の祭具を担う者よ。12 しかし、急いで出る必要はない逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」
序
イザヤは紀元前740年頃にイスラエルで活躍した預言者で、この頃、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、霊的な水準は異邦人のレベルにまで落ち、神の懲らしめの下にあるだけでなく、裁きの下にありました。イスラエル王国はアッシリアに征服され、ユダ王国もまたバビロンに征服されました。586年のことです。神の目には、アッシリアもバビロンの一部分です。私たちもまた救われる前は、バビロンの一部分でした。救われた後もバビロンの一部分にとどまってきました。なぜなら教会に問題を引き起こし、神の民を駄目にしてきたからです。私たちが聖徒たちを非難する時はいつでも、バビロンの一部です。イスラエルを神はアッシリアやバビロンを用いて懲らしめましたが、イスラエルが悔い改め、救いを求めたため、神は過度に懲らしめをなしたアッシリア、バビロンを滅ぼし、イスラエルの解放、回復を図ったのです。すべてのイスラエル人が聖地に戻り、バビロンでの70年間を忘れて、新しいことを行なおうよう神が愛をもって導かれました。神のしもべとしてのキリストは、バビロンからイスラエルを解放するペルシャのキュロス王によって予表されています。
1 偶像
バビロン捕囚は、偶像が力なく、役に立たず、何もできないことを証明しました。真の神だけが救う力があります。神の民が捕らわれた時、多くの偶像を捨てずに、エルサレムからバビロンへと運んでいきましたが、それが重荷となりました。神の地位に置き換わり、神の地位を占有するものは何であれ、礼拝する者にとって重荷となる偶像です。人、教育、会社での高い地位なども、すべて偶像となります。それらは最終的には私たちを助けるものとはなりません(イザヤ46章1~2節)。それゆえ「バビロンから出よ。カルデアを逃げ去るがよい」と言います(48章20節)。あなたがたを奴隷としているバビロン帝国のカルデア人の手から逃げるのです。さらに52章11節では、「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れた者に触れるな。その中から出て、身を清めよ、主の祭具を担う者よ」と言います。この祭具は、バビロンがエルサレムに侵入した時、神の宮を破壊し、主の祭具をバビロンに運び去りました。この祭具は、神の民がキリストを享受する道、手段を予表します。これらの多くは損なわれました。私たちは今キリストに従って、バビロンから離れるように要求されているのです。
2 敗北の原因
ヨシュア記第6章で、イスラエルの民はエリコに対して勝利を得ましたが、アイに対する戦いでは打ち破られました(同7章)。その原因を、神は、イスラエルの民が罪を犯し、神の命じた契約を破り、滅びし尽くして捧げるべきものの一部を盗み取り、自分のものとしたからだと言います。私たちの中より呪われたもの、汚れた物を取り除かない限り、敵に立ち向かう力は与えられません(7章12~13節)。ヨシュアがアカンに尋ねると、彼は美しい上着、銀、金の延べ板を捧げ尽くして滅ぼすのを惜しくなり自分のものとするために奪ったことが判明しました。ヨシュアは、「おまえはなんという災いをもたらしたことか。今日、主がおまえに災いをもたらされる」と言われた如く、アカンとその家族は石で撃ち殺されたのでした。この後、ヨシュアがアイを攻撃しますと主は彼らに勝利を与えたのです。
適用
バビロンとそれにかかわりのある一切のものから遠ざかりなさい。それらはサタンに地位を与え、神の民を打ち破り、災いとなります。それらは、汚れているからです。神のきよい民になり、あわてず、神の導きに従い、確実な勝利と祝福を手に入れるよう祈りましょう。