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「希望の光・キリストを待ち望む」

1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。3 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。

 イザヤ書42章は、神の民と諸国民の「契約」と希望の光としてキリストを啓示しています。神はキリストを召し、その手をつかみ、命と力を与える契約とならせ、また諸国民の光とならせました。それは見ることのできない人の目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すためでした(7節、ルカ4章18節)。

1 主を待ち望む

 父なる神が喜び迎えるしもべとは、イエス様のことです。彼の上に父なる神の霊が置かれると1節で告げていますが、父なる神としもべであるイエス様とが一心同体であることを意味しています。彼は「国々の裁きを導き出す」とあります。それは公正を持っていると言うことです。主を持つ時、あらゆる公正を持ちます。主を持たない時、公正を欠きます。主が公正を持つと言う事は、正しい解答を持つと言う事です。つまりキリストが答えであることを意味します。何をするにしてもキリストの答えを持つべきです。様々な疑問、質問があるとも主がなければ答えはありません。主を持てば、あらゆることの答えを持つのです。キリストを待ち望むとは、あらゆる質問を主に持っていくことを意味します。何かをする場合、まずその事柄を主に持って行き、主の公正を待ち望むべきです。ですから私たちは主の所に持っていく前に何も行わず何も言わないと言う学課を学ばなければなりません。たえず主を待ち望む時、私たちは主との一致の中で行動し、語ることが出来るのです。

2 主のしもべは叫ばず、声を上げず

 42章2節は、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とあります。この節はマタイ12章19節で引用され、イエス様に適用されています。主は物静かで、路上で大声を出したり、言い争ったりしない「隠微者」でした。また「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」と続けています(3節)。キリストは、大声を上げなかっただけでなく、傷ついた葦を折ることなく、煙って暗くなった灯心を消すこともありませんでした。つまり、どんなに弱い者であっても踏み倒さず、どんな小さな望みの火も消さないで、しょんぼりしている人を元気づけ、もうだめだとあきらめている者を励ます、あわれみに満ちたお方であったことを示しています。ユダヤ人はしばしば葦の笛を作りました。傷んだ葦はもはや音も出ないので楽器としては役立たない、そこで折って捨てました。しかし主は傷んだ異邦人に向かわれ、「裁き」つまり「正義と公平」を知らせ、なおも傷んだ葦から音楽を聞くことを望まれました。主の民の幾人かは、音楽を奏でることが出来ない傷んだ葦のようです。またある人たちは光り輝くことが出来ない煙っている灯心のようです。ユダヤ人たちは牛の角の容器に亜麻布を差し込んで、それに油を注ぎ、歩く時の明かり、ともし火としました。その亜麻布の灯心がくすぶり出すと、彼らはそれを消しました。くすぶっているクリスチャンは、集会の中で問題を引き起こします。したがって多くの人はそのようなトラブルメーカーを避けようとします。ところが、主イエス様はそのような厄介者をも消されませんでした。主はその人が再び光を放つことを望んでいるからです。よって教会の中で「傷んだ葦」として、「くすぶる灯心」である異邦人となりがちな私たちをも主イエス様は、見捨てないのです。

適用

 偶像に従うものは失望落胆します。真実が見え、その声が聞こえる力が与えられるように、主イエス様と一心同体となりましょう。


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