「静かな信頼の中にこそ力がある」
15 まことに、イスラエルの聖なる方わが主なる神は、こう言われた。]「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえにあなたたちを追う者は速いであろう。
序
イザヤが「イザヤ書」を書いた時、明確な主張を持っていました。それはイスラエルを御自身の証しの民として「雇い」ましたが、彼らは神様に失望し、彼らの周りの諸国の民を「雇い」懲らしめた。ところが彼らはイスラエルを過度に懲らしめ、神様の期待に応えず、かえって怒らせ、その結果、神様はイスラエルの民も周辺の国の民も「解雇」したと言うのです。これにより、イスラエルは神様に向きを変え、悔い改め、キリストが導かれ、イスラエルはキリストと共に生き、リバイバルを持つというのです。これがイザヤ書を支配している論理であり原則なのです。よって、第30章と第31章では神様がイスラエルのエジプトに頼ることを対処し、諸国民を対処し、その結果、イスラエルを神様に転向し、リバイバルを伴ってイスラエルが戻ることを見ます。
1 エジプトに身を寄せること
第30章1節で、預言者イザヤは神様に背き、はかりごとを企てる「この世を」象徴するエジプトと同盟を結ぶイスラエルの子たちは災いだ、と言います。神様の民が、復活の命を与える神様の霊に頼らず、罪に罪を重ねてこの世(エジプト)に下って行き、ファラオ(エジプトの王)の保護の下に身を寄せ、エジプトの陰に隠れることが、「お前たちの恥」となり「辱め」を受けることになるのだ、と警告します。たとえエジプトと同盟を結んだとしても何の益も得ず、助けにならず、かえって恥と嘲りの種になるだけだ、と言います(5節)。神様の民は堕落した状態にあり、低い状況にある時はいつでも、エジプトへ行きます(創42章10節)。今日、クリスチャンもまた霊的な状態が低くなるとしばしばこの世へ行きます。エジプトへ行き、エジプトに頼り、エジプトの保護の下に身を寄せることは罪なのです。それは常に辱め、恥、嘲りという結果になります。これまで私たちは、多くの聖徒たちが、教会生活が不愉快になり、この世へ戻って行ったのを見ます。そして彼らはこの世にとどまり、多くはこの世から戻って来ませんでした。ここで私たちはどんなに低くても、どんなに不満があっても、この世に戻ってはならないことを学ばねばなりません。むしろ主を見上げるべきなのです。霊的に低くなった教会生活を見下ろすのでなく、見上げる時、主は私たちを持ち上げる道を持たれ、それを示してくださいます。
2 神様に信頼すること
「エジプトの助けは、空しくはかない」と言います(7節)。この世には救う力など無いと言います。いくらエジプトに貢物を携えて行ったとしても何一つお返しなどしない、いや出来ない。エジプトの約束など空手形であり、従って預言者はこの国を「繋がれたラハブ(無気力なワニ)」と呼ぶと言います。更に、エジプトに頼る者たちに対して、預言者は「まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子、主の教えを聞こうとしない子らだ」(9節)とも言います。イスラエルの民は意地っ張りで、強情な反逆者であり、本当のことなど聞きたくない、ただ耳ざわりのいいことだけを話してくれ。嘘でもかまわないと考えていると言うのです。そして根も葉もないことを信じて悔い改めようとしなかった。だから災難が突然おまえたちを襲う、ちょうど城壁にひびが入り、がらがら音を立てて崩れ落ちるようにだ。「崩壊は突然、そして瞬く間に臨む」。わたしは壺が割れるようにおまえたちを砕き、少しも手心を加えない、と神様は言います(13~14節)。そして神さまに立ち返り、神様の助けを待ち望みさえすれば、救われる、心を落ち着けて、信頼することが、救いの力となるのだと言います(15節)。今日私たちはまず神様に立ち返り、そこに静まって安息する必要があります。そうすれば力を得るのです。しかしながら、イスラエルはそうせず、「とんでもないことだ。さっそくエジプトの力を借りよう。足の早い馬を用意してくれるはずだ。それに乗って逃げよう」と考えるのですが、見るのはあなたを追いかける敵の速さだけだと言うのです。
適用
神様の愛を信じ、みもとに立ち返りましょう。「去者必返」という言葉があります。信頼しているならば去った者でも必ず戻って来るという意味です。神様は去った者が戻られることを待っておられます。神様は助けたいのです。最善を尽くしたいのです。いつまで意地を張り、この世に救いを求めるのでなく、神様に立ち返りましょう。