「汚れた唇の民の中に住む者の救い」
5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
序
預言者イザヤはイスラエルの民の状態、その主なる神に対する反逆、腐敗、下劣さを見て失望していました。この時、主なる神はイザヤにあるビジョンをもたらして、天の御座に座しておられる栄光の主キリストを見るようにされました。主は彼にこう言われているかのようです、「神の民の状況を見下ろしてはならない。そうするなら失望するだろう。ただ私を見上げなさい。私はいまもなおここにいる。ここではすべてが良い。最善の事柄が備えられている。私を見なさい」。 皆さんも教会生活の始まりは蜜のように甘く、楽しかったでしょうが、しばらくするとそれが酢のようにすっぱくなるのを経験した事でしょう。それで他の所に移住しようかと考えたはずです。どんな人でも絶えず甘い生活を見い出すことはできないと保証します。どの教会でも幾らかの酢があるからです。ですから教会生活を円満にするのは、教会の状態を見下ろすのでなく、キリストを見上げる事を学ぶ必要があります。私たちはキリスト以外のものを見つめてはならないのです。それは十字架ではありません。天の御座におられるキリストです。
1 罪の認識
キリストの衣の裾は神殿いっぱいに広がっていました。そして6つの翼を持つセラフィム(人間の罪をきよめる天使)が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、すべてを覆う」と唱えていました。このキリストの栄光の中にいるビジョンを見てイザヤが反応したことは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言ったのです。かくしてイザヤはこの聖なるビジョンを見た結果、これまでの自分を終わらされました。彼はそれまで「汚れた唇の者であり、汚れた唇の民の中に住む者」であった事を認識したのです。これにより自分の語る言葉の大部分が、たとえその内容が真実であったとしても人を傷つけたり、人に迷惑を与えたり、誤解と無知によって安易に批判の言葉を使っていることに気づかされます。私たちの唇は汚れ、うわさ話、つぶやき、論争などの汚れた言葉で満ちています。これらは、教会生活を酢のような味わいにします。これらを取り除くなら、語るべきことがほとんどなくなります。私たちはイザヤのように自分の唇が汚れていることを認識する必要があります。そして主のビジョンを見て、照らされることです。主イエス様を見る時、私たちは自らの罪深さを認識するのです。私たちがどれだけ自分自身に関して認識しているかは、どれだけ主イエス様を見ているかにかかっています。
2 罪からのきよめ
イザヤは自分が終わらされ、汚れた唇の者であることを知ったのですが、王なる万軍の主を見ました。するとセラフィムのひとりが彼のもとに飛んできて、祭壇からの炭火をもって彼の唇に触れ、きよめたのでした。この炭火は十字架上で完成されたキリストの贖いの効力を表徴します。この炭火をもってきよめたことは、イザヤの罪科を取り除き、彼のすべての罪をきよめ、赦したのです。自分が汚れているかきよいかは良心の感覚にかかっており、その感覚はしばしば麻痺しています。ですから主を見つめていないとこの感覚が敏感にはなりません。それは主をどれだけ見ているかにかかっています。そして良心がきよめられ、とがめがなくなれば、平安が満ち溢れます。しかし旧創造にとどまっている限り、決して完全にきよくなることはありません。また良心の感覚の麻痺も治りません。旧創造は罪と死の法則の中にあり、決してきよくないからです。
適用
私たちには体の贖いが必要です。いったん体が贖われると、私たちは旧創造から抜け出て、新創造の中に移されます。その時には、私たちは完全にきよくされます。そうありたいと願う人は多くいます。しかし旧創造のしがらみから抜け出られない人は、勇気がないのです。同時に、それは全能なる神が救い出して、一切の問題を解決して下さる信仰の欠如です。ただキリストを信じる以外に救いはありません。