「主を待ち望む者」
「6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。8 草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ・・・・29 疲れた者に力を与え勢いを失っている者に大きな力を与えられる。30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 31 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
序
新約はバプテスマのヨハネで始まり(マルコ1章)、イザヤ書40章もバプテスマのヨハネで始まります(イザヤ40章3節)。この後、神の栄光としてのキリストの出現があります。イザヤ書40章はこれを語った後、野の草や花のように。すべての人は枯れしぼむ、しかし神の言葉は永遠に立つと告げています。神の言葉とは、神の福音としてのキリストです。ですからすべての肉なる人は、神の栄光であるキリストを受け入れるべきなのです。このキリストを受け入れる人は、再生されて永遠の命を持ち、永遠に生きるでしょう(Ⅰペトロ1章23節)。
1 旧創造と新創造
預言者イザヤ((紀元前760~696年)がこの章を書いたのは、まだ旧創造であったヒゼキヤ王と新創造における再生され造り変えられた人との比較を私たちに与えるためであったと信じます。ヒゼキヤ王は敬虔で祈りの人でもありましたが、なおも旧創造の中におりました。そのため職務を罷免され、解雇されました。しかし40章では、異なる種類の人、すなわち再生され造り変えられた人、解雇され、キリストにある神を自分の置き換えとし、今や主を待ち望み続けている人を見るのです。主を待ち望む人は、「新たな力を得て、鷲のように翼を張って舞い上がる」と言うのです。使徒パウロは、そのような人の代表です。皆さんもヒゼキヤ王のようであるか、パウロのようであるか問うてみましょう。私たちはパウロのように新創造にある人となりますように。パウロは、旧創造が終わらされ、解雇され、置き換えられて、今や新創造がキリストと共にあります。
2 置き換えられた人
イザヤ書40章6~8節で人間が何であるか、人が真に必要としているものが何であるかを明らかにしています。そこでは、神の言葉以外、人間は枯れしぼみ衰えると言うのです。人間はむなしくはかなく、無に等しいものです。しかし、神の言葉であるキリストは神の栄光であり、これだけが残ると言うのです。もし人が、神の言葉(キリスト)を受け入れるならば、永遠の命を得て、再生され、永遠に生きるのです。ですから神を待ち望む必要があるのです。神を待ち望むとは、三一の神(肉体と成り、十字架につけられ、復活し、昇天して、再来するキリストを通する父と子と聖霊なる神)の救いによって終わらされ、置き換えられることです。主を待ち望む者は、内側に復活の命を与えるキリストの霊を宿らせ「生きているのはもはや私でなく、キリストが生きておられる」ことを告白し、この聖霊なる神の指示、導きに生きるのです。その聖霊なる神は、弱い者を力づけます。29節からこう言います、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も弱くなって疲れ、勇士でさえつまづき倒れる状態であろうと、主なる神を待ち望む者たちはその力を新たにするのです。彼らは鷲のように翼を張って舞い上がる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない、と言うのです。これを信じようではないでしょうか。神のことばであるイエス・キリストを心に宿す者は、永遠の命を得て、新しい力を得るのです。昨日までの力ではありません。新しい力を得るのです。神の言葉には命があり、それは霊であり、復活の力を与えます。空に羽ばたく力強い翼とは、キリストの復活の力を表徴しています。もし旧いこれまでの経験や能力、自信や才能を罷免、解雇して終わらせ、新しい命であるキリストに置き換えて、主を命と力、すなわち復活の力として待ち望むならば、この力は私たちを強め、鷲のように翼をもって舞い上がり、地の上を高く昇ることが出来るようにするのです。これが神の救いの経験なのです。
適用
イザヤはビジョンを見た時、旧創造の中に欠点、短気、不道徳、過失があり、それらの置き換えの道を示され実践したのでした。皆さまは何を置き換えますか。