「救いの泉」
序
イザヤ書12章では、神が私たちの救いであり、私たちの力であり、私たちの歌であると告げています(イザヤ12章2節)。その救いの源泉から水を汲み、それを飲むことによって救われると言うのです。では具体的にどのようにその水を飲み、救いを得るのでしょうか。
1 救いの神とは
旧約において神とはヤハウェのことですが、新約において、私たちの神はイエスまたキリストと呼ばれています。私たちは親しみを込めて「愛する主イエス様」と呼ぶことがあります。旧約の神ヤハウェは新約の主イエス様で、肉体と成った神で「イエス」という名は「神の救い」を意味します。そして主イエス様は、救いの泉です。手順を経た三一の神は、命の水の源泉、泉、川として存在します。御父は源泉であり、御子は泉であり、その霊は命の水の川となって流れます。ヨハネ福音書7章38節で主イエス様は、私たちの内から生ける水の川が流れ出ると言われました。この命の水の川は、神の命の霊です(ローマ8章2節)。水は手順を経た三一の神であり、この源泉から、私たちは救いの泉を持ち、この水を受ける時、それは流れとなって私たちの内側を流れます。ヨハネ4章で主イエス様はサマリヤ人の女に、その生ける水が彼女の中で湧き上がり、永遠の命へと至ることを示されました(14節)。主は「渇いている者には、命の水の泉から価(あたい)なしに飲ませよう」(黙21章6節)と言われました。旧約も新約も、生ける水は、神の実際的な救いを示します。その実際的な救いは、手順を経た三一の神です。「主の祈り」で唱える「天の父よ」とは御父であると同時に御子です。イザヤ9章5節にはそれは明確に述べられています「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた・・・その名は『力ある神、永遠の父・・・』と唱えられる」とあるように主イエス様は、神であると同時に永遠の父なのです。
2 救いの道
神様に救っていただくにはこの命の水を飲まねばなりません。水が私たちの中に入ると全存在に浸透し、私たちとなりさえします。私たちはこの水によって養われ、潤されますから、毎日飲む必要があります。霊の実際において、主を飲むとは、主を呼吸する事でもあります。主イエス様の御名を吸い込むことが、命の水を飲むことです。「おお、主イエス様」と御名を呼ぶことによって呼吸しつつ、命の水を飲むのです。空気の中には水分が含まれています。その空気を吸うことは水を飲むことです。潤されるのです。イザヤ12章3節では「救いの泉から水を汲む」ことについて語っています。疑いもなく、これは飲むためです。そして4節では「主に感謝し、御名を呼べ」とあります。神を賛美することと神の御名を呼び求めることが、一つにされています。主の御名を呼び求める時はいつでも賛美しています。「おお、主イエス様」と言う時、それは賛美し呼吸しています。多くのクリスチャンが霊的に麻痺しているのは、この霊的な呼吸を実行していないからです。肉体的に呼吸しなければすぐに死んでしまいます。これは主を呼び求めることにおいても重要な点です。聖書は「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2章21節)と言います。主の御名を呼び求める習慣が始まったのは、創世記4章26節に出て来るアダムとエバの第三子セトの息子「エノシュ」の時からです。彼の名は「もろくて、死ぬべき人」を意味しています。私たちは実に弱く、もろく、壊れやすく、死ぬべきものでして主から離れて何もすることができません。ですから主を呼び求める必要があるのです。呼び求める時、呼吸します。そして呼吸することは飲むことなのです。
適用
心に怒り、嫉妬、悲しみが現われた時の対処法もまたこの呼吸によって救われます。吸う息、吐く息を通して体全体を静めるのです。強い感情に対する呼吸方法はおなかから呼吸する方法「腹式呼吸」が一般に奨励されています。恐れや怒りにとらわれたら、その意識を腹部に持っていくのです。私たちは嵐の中に立つ木と同じです。頭が強い感情で大荒れしている間は木のてっぺんと同じですので揺れが激しく小枝は折れそうになります。そこで意識をおへその位置に下げるなら、木の幹の部分が強固であるように嵐に耐えられます。嵐は必ず去り、長くは続きません。要は嵐をどう乗り切るかなのです。よって神を賛美し、主の御名を呼び求めることが救いを得る道なのです。