「主の打ち傷のゆえに」
序
不可能にチャレンジし、可能となる信仰を持とうではありませんか。「ヤーウエ・イルエ」(主の山に備えあり)(創世紀22章14節)、神様のおことばに変わりはありません。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7章7節)との主イエス様のおことばに間違いはないと信じて乗り切って行きましょう。
あるアメリカの靴会社のセールスマンが、アフリカに派遣されました。彼は現地に着くなり本社に電報を打ち、「当地は靴を履く習慣がないので、すぐに帰国します」と報告しました。次に派遣された社員も現地に着くなりこう電報を打ちました、「アフリカには靴を履く習慣がないので、大量に靴を送ってください」と。イエス様は「収穫は多いが働き人は少ない」と言われました。伝道をするうえで、負け犬にならないでチャレンジ精神を持って日本一千万救霊のために祈って行きましょう。それにはキリストがすべての解決の基なのです。
1 刺繍と十字架思考
私たちは「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節) とのみことばを心の内に宿しているとしても、いつの間にか不平不満がたまり感謝を忘れてしまう時があります。ことに病の時はそうです。体が痛み、痛み止めも効かない場合は一層それは深まります。美しい刺繍を見ていて思うことは、裏側から見ていても何の絵柄であるのかも分からないのですが、ひっくり返して表から見ると、それが美しい風景である事を知ります。人生も同様で、裏側ばかり見ていると恨みつらみの人生でちょっとも感謝の気持ちが起きません。感謝するより失望することの方が多いのです。 このような時、十字架を仰いで見るとそれはプラスを意味しているのに気づきます。それは可能思考、積極的な考え方を越えた物の考え方を与えてくれます。そこにはすべての罪と病、呪いと貧乏、死と滅びの災いを取り除き、復活した命を与える主が私たちの内に宿っているのだと示しております。それは十字架思考であり、聖霊思考であり、復活思考が提示されています。刺繍と同じように私たちの人生も裏側から見ると何が何だか分からず、時には悲しみや苦痛、失望や劣等感、挫折や逆境ばかりが目につき、絶望することの方が多いのですが、愛の神がもたらした主の十字架の出来事を通して人生の逆境はプラスとなり試練や問題が祝福の原因であることに気づくのです。聖書にこうあります「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)。自分で良い方に変えるのでなく、神様がそのように益としてくださるのを知って心から感謝するのです。どんなときにも感謝ができると言うのは愛の神の必然を知っていると言うことです。
2 主のいやし
私たちが強められるのは、主のいやしを受けるからです。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聴き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」(出エジプト15章26節)。 そしてこのいやすお方は十字架におかかりになった主イエス様です、主は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(Ⅰペトロ2章23-24節)。もし病になったなら「わたしはあなたをいやす主である」「キリストの打ち傷によっていやされる」と内なる復活の主に向かって祈るとよいでしょう。すると「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい」とのみことばを実践するチャンスを得ます。主イエス様をいやし主と信じる者が「病人に手を置けば治る」(マルコ16章18節)と聖書は告げています。ですから自分の弱っている手足や腹に手を置きこれらを宣言し、祈り続ける事です。
適用
病のもとである罪は人間の力ではどうにもなりません。主の十字架の贖いによって解決します。復活の主を心に受け入れましょう。